前はよく二人で蕎麦を食べに来ていた赤い暖簾の掛かった角の蕎麦屋。食べる前に小さく手を合わせる仕草は昔から変わらないなと思ったし、食べ終わって店の外に出ると雨が降っていたことも珍しくはない。店の軒下で雨宿りをしながら他愛のない話は止まらなかったし、昔話もたくさんした。ああだったよね、こうだったよね、などと言い合った。時には一枚の羽織を二人で被り、雨の中を楽しく走ったこともある。足袋が濡れても気持ち悪いとは思わなかった。それもこの間のことであるようなのに、今ここにあるのはぎこちなさだけである。

「お前、たまに此処に来たりすんの?」
「永倉さんこそ、」

中くらいの包みを大事そうに持ったまま、蕎麦屋の軒下で斎藤は永倉に聞き返した。視線を合わせることなく、斎藤は遠くを見ている。

「…よく来るよ。」
「奇遇ですね、俺もよく来ます」
「じゃあ誘えよな、前みたいに…」
「前みたいに、って、永倉さんはそうやって勝手に想い出にしてしまうんですね」

想い出にしたつもりはなかった。ただ、想い出になるのをやめたかった。横顔だけでは表情は掴めない。遠くを見るのをやめて自身だけを見て欲しい。そんなことも言えないのはやはり臆病だからか、それでも触れてしまえば伝わるのではないか。いいえ、触れて言葉にしたい。言葉にする前に触れてしまいたい。

「なぁ、俺さ、はじめのこと、」

袖を引っ張られ、永倉の耳元で低く「想い出にしたい」と斎藤は告げた。歪んだ視界が戻ると、そこには傘を差した、見慣れた顔の男が立っている。

「あれ、永倉先生も一緒やったん?あかん、傘一本しか持っとらん、最悪や」

蕎麦屋の前は一気に騒がしくなり、それに合わせて斎藤はくすりと笑った。笑って男の差す傘の中に身体を滑り込ませ、また笑う。

「違うよ久米部、永倉さんとは偶然に会っただけ。それに永倉さんはちゃんと奥様が傘持って迎えに来てくれるから大丈夫」
「あ、そうなんやぁ」
「それより、久米部の大好きなお菓子、包みいっぱい買っちゃった。帰ったらたくさんお食べ」
「これ鍵善のやつ!ほんま有難う、一緒に食べるん楽しみやわぁ」
「早く帰ろ、久米部。お迎え有難う」
「ん、…ほな永倉先生、お先にすんまへん」

斎藤は一度も振り返ることなく、久米部と二人で楽しそうに笑い合い、人混みの中に消えて行った。曇り空は明るい灰色のくせに、吹く風は黒色に淀む。


「勝手に想い出にしてしまったのは、そちらの方だったろうに」


跳ね返った雨が足先を濡らす。降り続ける雨は行く先を阻む。答えが分からぬ先と、答えが分かっている先は結局同じであるように、結末は最初から二通りもなかったのではないだろうか。
足先は冷たく生温い。


end











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