露草色の花が山の影に重なり涼しげに揺らぐ中、心地の良い風は裏葉色を運んでくる。時には夏虫色が水底の中を透き通り、真夏の終わりと晩秋の気配を思わせた。

山々が折り重なる向こう側へ川は道標のように続く。穏やかな川、穏やかな水流に乗り、渓谷や巨石を眺めながらの優雅な保津川沿いの川下り、と言いたいところである。が、つい先日の大雨の影響で、川は威勢よく咆哮を上げ、優雅な川下りは恐怖の濁流下りとなっている。その中へ自ら飛び込むなど、自然界の掟を知る生物たちは、命を捨てるような行為だと心得ている。心得ているからこそ、そのような危険なことは絶対にしないものだ。しないものなのに、何故人間だけはそのような事をするのか、流れ行く舟の真上を飛ぶ鷹は、人間に問いたかった。

「風が気持ちいい!やっぱ川下りはこうでなくちゃなぁ」

舟の先頭に立ち、腕を組みながら楽しそうに芹沢は笑った。自然に逆らう人間を、強者という。そんな強者は、舟が巨石に激突すれば舟諸とも粉々散々になるというのに、安全に川下りを終えると確信しているのだろうか。それとも、舟の舵を必死で取る仲間に信頼を寄せているのだろうか。いや、信頼関係構築の前に絶対に生きて帰りたい。その思い一心で川下りの舟舵を懸命に右側で取っている永倉は、気が気ではない。生きた心地も全くしない。
対する左側で平山が舵を取っているのだが、彼は涼しげな顔をするばかりで一切焦りは見えなかった。…これも自然界の強者、芹沢と長年付き合ってきた経験から来る余裕であろうか。
このような状況下で川下りは現在進行形で行われている。舟に乗った瞬間、流され始めたその時から、冷静を失った永倉と冷静を決して失わない平山の舵取り合戦が繰り広げられていた。

「平山さん!左!左に岩ある!」
「承知。あっ、永倉君今度は右に岩だよ、思いっきり左に漕いで」
「ふぐぐぐっ!おらぁぁああ!」
「よし、回避出来た」
「平山さん何でそんなに冷静なんですかああ!左!左!今度は右かよ畜生!」
「物事は常に冷静に考えなければね」
「だったら芹沢さんが川下りしようって言った時点で冷静に断ろうよおおおお!!」
「それもそうだよね、ふふっ」
「やめて!今憂いに満ちた感じで笑わないで!!舵柄から手ェ離さないで!!」

先日の大雨で氾濫した川はゴウゴウと水飛沫を上げ、永倉と平山の苦労の声は最早芹沢の耳には届いていない模様である。
何故このような事になってしまったのかは、お遊び大好き人間芹沢の「川下りをしよう!」の軽い一言で始まった。その一言に付け加え、昨日は凄まじく土砂降りな一日であったという奇跡が、今日を一層最悪なものにしている。たとえ火の粉が降ろうと槍が降ろうと、自然の脅威が迫ろうと、芹沢は自分のしたいことはする。そういう屈強な男でもあった。ただし、必ず巻き込まれる者が決まって三人いる。これは逃れられぬ命運でもある。

そんな安定した不運を発揮しながらも、平山と永倉の二人が一生懸命に命のやり取り(舵取り)を行っている中、もう一人の不運要員こと斎藤一は、舟の真ん中で漆塗りの重箱を強く抱き締めていた。芹沢が川下りを楽しみながら皆で食べようと、早朝から茹でた素麺が入っている重箱だ。
蹲りながらも何かを訴えかけるような眼差しで、斎藤は永倉をちらりと横目に見た。

「永倉さん…もう駄目、吐く…」

斎藤は一生懸命、孤独に船酔いと戦っていた。
平山と永倉も絶体絶命だが、吐き気に襲われている斎藤も絶体絶命なのである。

「…っ、我慢しろォ!!」
「ずっと我慢してた…屯所出た時から…」
「は!?屯所出た時から!?どういう意味!?」
「実は舟に乗る想像だけで吐けます」
「偉そうに言うな!!」

斎藤の止まらぬ吐き気を止めようとも、大元である舟が止まらない止められない芹沢は止まる事を知らないの三拍子であるため、永倉も助ける事は出来ない。それに今、このような状況で斎藤に吐かれてしまっては、絶体絶命が瀕死状態に陥ってしまう。

「じゃあこっち来て吐け!川に!」
「永倉さん…動いたら吐く…もう吐く…」

今度は絶対斎藤に吐かせたくない永倉と、絶対に今吐きたい斎藤の攻防戦が幕を上げた。

「馬鹿!お前そこで吐いたらゲロかかんだろが!どんだけの勢いで舟が流れてると思ってんだ!」
「だってもう我慢できない…芹沢さんが茹でたこの素麺いつ皆で食べるの…?」
「食えねーよ!!この状況で素麺食う暇ねーよ!今舵柄から手ェ離して素麺食ったら確実に俺たちあの世行きだろーが!!お前ほんと麺類好きな!」
「あの世で麺類なんか食べれないに決まってる…永倉さんの馬鹿…」
「馬鹿はおめーだろが!!素麺食いてぇのか吐きてぇのかどっちなんだよ!!」
「あの世に行く前に素麺食べたい、……うぷ、」
「吐くならそっち向いて吐くな!平山さんにゲロかかんだろ!こっち向いて吐け!俺ァ別にいいから!」
「うう…芹沢さん、素麺…、芹沢さん素麺芹沢さん素麺!!!」

蕎麦も好きだが素麺も大好きな斎藤は、ついに吐く事より素麺への熱い思いを心の底から叫んだ。その生の無い大声は逞しい芹沢の背中にぶち当たり、どうしたものか芹沢は爽やかに振り向いた。今まで散々必死に叫ぶ永倉の声は芹沢の耳にすら届かなかったのに…、とても不思議である。
芹沢は弱々しく蛞蝓のように萎れた斎藤に駆け寄ると、心配そうに肩を抱いた。

「どうしたの斎藤君、そんなに物欲しそうな顔して」
「そーめん…」
「素麺食べたかったの?」
「永倉さんが素麺食べちゃ駄目って、素麺食べたらあの世行きだって…」
「てめぇ!ハジメ!都合いいとこだけ言ってンじゃねぇぞ!!俺のせいみてーになってんだろが!」
「素麺食べたらあの世行きだぁ?永倉君、俺たち三途の川渡ってるわけじゃねぇんだぞ?」
「思っくそ三途の川じゃねぇか!!!!」

永倉の咆哮が轟く。山から数羽の鳥が飛び立って行った。

「三途の川だなんて失礼だね、斎藤君。あれ、斎藤君顔真っ青だよ」
「素麺を食べたいのと、船酔いが絡まって吐きそう…。でも永倉さんが吐いたら汚いから駄目だって…」
「またお前は俺が悪いみたいに言う!!そういうとこホントなんなの!?」
「斎藤君、吐いていいよ。俺、苦しそうに吐いてる人見るの大好きだから」
「じゃあ素麺食べてから吐いてもいいですか…?」
「うんうんいいね!素麺吐くのいいね〜!」
「芹沢さんの性癖に乗せられんなよハジメ!お前俺以外の前で吐いたら許さねぇからな!!」

謎の嫉妬心を剥き出しにする永倉に芹沢は舌を可愛くペロッと出した。(永倉はイラッときた。)
斎藤の向かいに座り重箱を開けると、綺麗なみずみずしい素麺を四人分の皿に盛り付ける。まるでこの二人の間にだけ、お花見の華やかさが伝わってくるようだ。

「冗談はさておき、永倉君も平山も一旦休憩な、ほら、せっかくの川下りなんだから皆で風流に素麺でも食おうぜ。第一、皆で素麺食べようと思って茹でて来たんだからな」
「こんな目にも頭にも留まらねぇ景色に風流なんか詰まってねぇーーよ!!陸地で食いたかったわ!!」
「ははっ永倉君今の言い回しいいねぇ。土方君の句集にありそうね」
「永倉君、皆で素麺食べていいよ、舟の舵は某が一人でなんとかするから」
「平山さんこんな状況で男前発言やめてぇ!素麺食わねーからぁ!!」

永倉の声が果てしない大空に再び轟く。
その時、ゴッ、ドゥン!と鈍い音と共に舟は飛んだ。一瞬の出来事と、舟が着地した水飛沫で何が起こったのかよく分からなかったが、あんなに笑顔だった芹沢が舟の先端で倒れている。俯せに倒れ、尻の部分だけ無惨に袴は破れ、露になった白い尻からは血が出ている。
そして丁寧に皿に盛られていた素麺は、斎藤が頭から被っている有り様だ。

「おいおい何が起きたんだよ!?何で芹沢さんケツ丸出しで倒れてんだよハジメ!」
「知らないけど素麺が…!」
「お前芹沢さん目の前にして何で素麺しか見てねーの!?目ぇ離した隙に芹沢さんケツから血ィ噴き出して倒れてんだぞ!?下帯もつけてねーじゃねぇか!いい加減素麺から離れろ!!」
「離れてくれない…懐に素麺が入ってくる、やだ、くすぐったいよ永倉さん、いや、やめて永倉さん…!」
「俺がお前の懐の中に入って行ってるみてぇな言い方やめろ!!ムラムラすんだろが!!」

川の咆哮と永倉の咆哮は同時進行で進み行く。それでも平山は冷静に舟の舵を取る。筆頭局長が目の前で倒れているのにも関わらず、舟の舵柄を手離せない状況は、平山を更に冷静にさせているようだ。
一瞬の出来事で誰の目にも止まらなかった芹沢爆破事件は、誰にも予測がつかない。だが大体の予想は頭にぼんやりと浮かんでくる。平山は口を開いた。

「永倉君、さっき舟が少し浮いただろう?あれはきっと前方に大きな岩が顔を出していたんだよ、永倉君右!右に漕いで!だからね、それに舟が乗り上げたと同時に…永倉君また右!芹沢さんが座っていた所に激突したんだと思うよ永倉君大きく右!」
「つーことはですよ…芹沢さんのケツから血が噴き出してんのは平山さん左!その岩に乗り上げた時に舟を突き破り芹沢さんのケツまで突き上げたと…平山さん左!左に漕いで!そういうわけですか」
「そうだね、その拍子に岩に下帯を持って行かれたんだと思うよ。永倉君回れ右!あっ間違えた、ただの右!芹沢さんは痛みに弱いから、お尻を岩に削られた衝撃で気を失ったんだと思う」
「舟に穴あいてるっつーこと…?」
「うん、でもね、舟に穴あいた所に芹沢さんが丁度倒れてるから、運が良いことに蓋になってる。お尻もちゃんと原型は保たれているし、そのままにしておこう」

ふたりは器用に支え合いながら舵を取りつつ、平山は冷静に芹沢の怪我の理由を述べ、永倉も冷静に納得した。

「あれ、でも平山さん。芹沢さんのお尻ってあんなに裂けてましたっけ?」
「裂けてるっていうか割れてるけど、きっと芹沢さんのお尻もあんな割れ具合だったと思うよ。ほら、お尻の割れ目なんてよく見るようで見ないし、知ったつもりで知らないじゃない?」
「そうっすよね、血の出具合すごいけど…」
「大丈夫、芹沢さん血の気が多いから大丈夫」

自分に言い聞かせるよう、平山は大丈夫だと二回唱えた。永倉は呪文のように心の中で大丈夫だと三十回唱えた。そして、これ以上不運が降臨しないためにも、二人は芹沢には触れない事にした。

「…さて永倉君、次の問題は斎藤君だよ。斎藤君の身体中を這う素麺をどうにかしなくちゃ」
「はっ!?いやいや、こいつの素麺事件は芹沢さんの怪我よりどうでもいいっすよ!」
「よくないよ永倉君。まるで葛飾北斎の春画『蛸と海女』だよ」
「なっ、し、しゅんが!?」
「同志が春画になるのは悲しきこと。斎藤君も苦しんでる」
「お、大袈裟ですね…、けど、俺たち同志っつーか幼馴染だし……、あー仕方ねぇな、おらハジメ、懐に入った素麺早く自分で出せよ。こっちはなぁ、必死に舟の舵取ってんだから」
「む、無理っ…素麺が張り付いて気持ち悪い…」
「あーっもう!着物脱がせてやっから!ほら、こっち来いよ!」

斎藤へと手を差し出すが、舟が大きく揺れ、ゴロロンと平山の方へ斎藤の身体は遠退いた。手を伸ばそうとも、左側へ転がって行った斎藤には届かない。

「あー…しゃあねぇ、ハジメ、平山さんに着物脱がしてもらえ」
「某が斎藤君の着物を脱がす…!?」
「俺なんとか舟の舵取り頑張っとくんで、平山さんハジメをお願いします」
「だ、駄目だ…!某はそんなこと…!斎藤君の肌に張り付いてる素麺、まるで蛸の触手…!いかん…!春画の更に奥の奥の春画を開くようだ…!」
「ちょ、平山さんそこで冷静さ失うの!?…じゃあハジメの着物の帯取ってやるぐらいでいいっすから…!」
「それも駄目だ!!斎藤君の着物をはだけさせるなんて…!某照れちゃう…!!!」

バキィィッ!!

照れちゃう!で感情が高まったのか、平山は手中にある舵柄に改心の一撃を喰らわせ、真っ二つに折ってしまった。舟はゆっくりと左側に寄って行く。

「おいおいおいおいィィ!!」

永倉の叫びがこだまする中、舟は二度ほど大岩にぶつかり大きく揺れた。なんとか右側の舵だけで岩を回避してきた永倉だったが、岩が大きいとどうしようもない。ハッと前方を見ると、不運なことに左側に巨石が集結している。左側の舵柄が折れていては、どうあがいても回避しようがない。
その時、冷静さを取り戻した平山がスッと立ち上がり、腰に差していた刀をスラリと抜刀した。

「興奮して心を乱してしまった、すまない」

平山は上段に構えると、舟がぶつかる寸前に巨石を思い切り斬りつけた。目にも見えない早さで平山は刀を振るい数々の巨石を回避していく。多少の衝撃を覚悟していた永倉であったが、舟はゆるやかに走るばかりであった。

「平山さん凄ェ…助かった。でも平山さんそれ武士の魂…」
「武士の魂など、仲間を守るためなら惜しまず捨てるよ。それにこの刀はスサノオの神剣、天叢雲剣だから折れないし、舵柄の代わりにもなる」
「あめのむらくものつるぎ…?」

日ノ本に生まれながら、古事記・日本書紀を読んだこともない永倉は、平山の話が全く理解出来ないのであった。

「もう下流に入ったし巨石も現れないだろう。舵は私一人で大丈夫だから、永倉君は斎藤君を抱き締めてあげてて」

刀で舵を取りながら、平山は斎藤を優しく右側へ転がした。

「良かった、危うく衆道に目覚めてしまうところだった。いけないいけない」
「よく分かんないすけど…平山さんがあんなに取り乱してるの初めて見ました」
「だって有名な春画の実写版を間近で見たからね、ついつい驚いてしまったんだ。『蛸と海女』…再現度は完璧だったね」
「女ならまだしも、こいつは色気もクソもねぇ奴ですよ。それに素麺まみれ」

腕の中にすっぽりと収まる斎藤の鼻を、永倉は軽く摘まんだ。薄ら目を開け眉を顰める斎藤の表情に、不覚にも胸が高鳴る。前言撤回、と言わんばかりに永倉は斎藤の頭を撫でた。

「もう舟も揺れねぇし、船酔いも落ち着いて来たんじゃねぇの?岸に着いたら身体の中に入った素麺取ってやるからな」
「…永倉さん、わかってない…。舟の微妙な揺れが一番気持ち悪いんだから…」
「は?」
「もう吐く」
「ちょ、やめろ、そこに吐くな吐くな吐くなァァァァ!」

永倉の懐の中に斎藤は素晴らしく吐いた。盛大な永倉の悲鳴と共に、舟は無事に西京極あたりの河岸に到着し、恐怖の川下りはこれにて終焉となる。

まだ意識を失っている芹沢のお尻に羽織をかけ、平山は軽々と重い芹沢を肩に担いだ。そして陸地に足がついたおかげでケロリとしている斎藤の横で、永倉は意識を失ってしまいたいような顔をしていた。

「お前なんで最後の最後で吐いたの…?」
「だって、俺以外の前で吐いたら許さないって永倉さんが言ったから」
「誰が懐の中に吐けっつったよ!?」
「いいじゃないですか、永倉さん俺のこと好きなんだから」
「ちっともよくねぇ!!」
「あーあ、そんなに酷いこと言うならもう一緒に寝てあげませんからね」
「はあ!?そん時は布団の中に引きずり込むから別に関係ねぇし!!」

ぎゃあぎゃあ言い合う二人を平山は微笑ましく見つめ、三人と担がれた一人は屯所へと帰宅した。
今回も不運に巻き込まれながら無事生還した三人。そして突然登場した平山の最強の神剣、天叢雲剣の謎…。果たしてこの三人が不運から解放される日は来るのだろうか──。



──後日。
「ねぇねぇ平山、お尻ってこんなに割れてたっけ?」
「芹沢さん、お尻は生まれた時から割れてますよ」


end











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