遠いような近いような、風鈴の音色が響いているような響いていないような。その音色を御天道様はどのように聞いているのかは知らないが、真夏の陽射しと青々とした騒々しい風物詩など、彼にはまさしくどうでもよかった。もうどうにでもなっちまえ、ぐらいの勢いはあるのだが、少々肝が小さいのが難点でもあり、その小さな肝を毎日毎日握り潰されていることも転じて、彼は真夏の炎天下の中、恐怖にガタガタと震えていた。 「あかーーーん!!あかんて!!」 「あかーーーんのがあかんやろ!阿呆!」 律儀な悲鳴と、その悲鳴に罵声を浴びせる言葉が飛び交うなか、篠原は満面の笑みで久米部を羽交い締めにしていた。その図体のデカイ身体に備え付けられた両足を、懸命に斎藤が押さえ付けている。 「痛い!滲みる!痛い痛い!山崎さん堪忍!」 「何が堪忍や、ワテがあんさんに悪いことしとるみたいやん!」 「痛い痛い!滲みる!!」 「痛うない!滲みらん!うるさい!」 「俺は痛いねんて!!滲みるねんて!!」 「久米部君昼間から元気だね〜。大人しく山崎君に消毒してもらわないと、化膿して足腐っちゃうかもしれないよ」 「いやああああっ」 耳元で篠原の恐ろしい囁きを聞き、久米部は更に甲高い悲鳴を上げた。野犬の鳴き声より一層空高く、入道雲を貫くほど威勢の良い悲鳴であると篠原は強く確信する。 これが最近、屯所内での夏の風物詩であると誰かは言った。 事の発端は久米部である。つい先月、久米部は不逞浪士に取り囲まれ、太股を前後不覚にも突き刺されるという大怪我を負ってしまっていた。最悪なことにも猛暑が続き、傷は治癒を遅らせている。 山崎が丁寧に親身に優しく傷の包交をしてくれているのだが、久米部にとっては地獄で閻魔大王に拷問を受けている感覚でしかない。 「終わったで」 「…死ぬかと思った」 「毎日毎日死ぬ死ぬゆうて大袈裟やわ、あんさんが大人しくすれば篠原さんも斎藤さんも付き合わされることなく苦労せんねん、感謝しい」 久米部の額を小突き、篠原と斎藤に会釈をすると山崎はその場を後にした。空が異様に青い、水の中から眺めているような感覚になるのは、両目から流れ出る涙に原因があるようだ。 その溢れた涙を、斎藤はいつも優しく拭い、太股に包帯を巻いてくれる。こんな御褒美ともいえる至福があるからこそ、久米部は山崎の治療にも耐えられているのだろう。 「久米部、今日もよく頑張ったな」 「へへ…」 「大好きな斎藤君に誉められて喜ぶなんて、まるで子供だね久米部君」 腕を組みながら篠原は溜め息を吐いた。蝉の鳴かぬ静かな真昼である。腰を下ろし、自身の腫れた太股へ綺麗に包帯を巻いてくれている斎藤を、久米部は熱い眼差しで見つめていた。尊敬の念も立派な恋心と変わらないのだと、篠原は二度目の深い溜め息を吐いたのだった。 「でも、これだけで済んで良かった。お前が生きててくれて良かったよ」 「死んだら斎藤せんせぇにこうやって包帯巻いてもらうこともできひんかってんなぁ」 「馬鹿、その前に怪我をするな」 「俺、斎藤せんせぇ守れるぐらい強うなりたい」 「ん、楽しみにしてる」 微笑ましい光景が広がる中、篠原は熱い茶でも飲み干したいと考えている。そのあとは今日の出来事をいかに面白く日記に書こうか、大いに悩もうとも考えている。 そんな時、重い足音と共に頭上から低い声が下りてきた。 「斎藤君を守れるぐらい強くなりたいのなら、山崎さんの治療に耐えれるぐらいの精神は必要だと思うけど」 顔を出したのは、にこやかに笑う服部であった。何処かへ出掛けるのか、珍しく着流しを着て黒帯に刀を差している。斎藤の手が、ぱっと久米部の太股から離れてしまった。包帯の端が、だらりと床につく。 「久米部君、怪我はどう?」 「あ、ええと…少し歩けるようには…」 「そう、大変だったね。今から祇園の方に行くから、何かおいしい菓子でも買ってきてあげよう」 包帯の端をきゅっと結ばれると、足先にぴりっと痛みが走ったが、服部から結ばれた包帯は綺麗にまとまり優雅に留まっている。血が滲まなくなった筈の包帯に、血が滲んでいた。夕暮れを見るように、不安な感情が頭を廻っていく。しかし、延々と傷が痛み続けるわけでもない。 「お大事にね、久米部君」 こんなに近くで服部の顔をまじまじと見たことは無かったが、とても端正な顔立ちをしていた。心が削られる気持ちになるのは何故か、その理由を久米部は探れないでいる。 「おや、べえは今からお出掛けかい」 「篠原さんにも茶菓子、土産に買ってきますよ」 「では渋い茶に合う、とびきり甘いのを」 「承知しました。行こうか、斎藤君」 廊下を二人並んで去っていく後ろ姿を、久米部はぼんやりしながら目で追った。服部の手が、斎藤の細い腰に添えられている。痺れるような痛みが、足先ではなく先程削られた心に感じたのは気のせいでも何でもない。 ごろんと寝転がると、隣に座る篠原の顔がにんまりと緩んだ。 「べえに取られてしまったね」 事実に返事はせず、静かに久米部は頷いた。 じわじわと水面に沈む視界に、身体はもうずぶずぶと沼に浸かっている。 「いい男だろう」 「はい、とっても…。」 「斎藤君をいつでも守れるよ、べえは。久米部君より強いからね」 「ほんとのこと、篠原さんもよう喋るねんな…」 「君もいつか斎藤君の隣に立って斎藤君を守れる時がくるさ」 「うん…。」 蝉が一斉に鳴き出したおかげで、鼻を啜る音は篠原に聞こえていなかったのだと、久米部は勝手に思い込んでいる。 涼しい風が吹こうとも、そんなものは今の彼に何も与えようとはしなかった。篠原もこのような苦い思いに苦しむ若者に、苦い茶などを煎れてあげようなどとは思わなかった。若者が起き上がるまで、見慣れた屯所の庭、植木の位置、隅に咲いた花の枯れ具合を目に入れるだけであった。 「あんさんの悲鳴、もう屯所中に響かんから皆残念がっとったで」 「俺は強うならなあかんので!!宜しくお願いします山崎さん!」 「なんやねんその意気込み…。」 屯所の夏の風物詩である久米部の悲鳴は、いつの間にか噂のように消えていた。 end ← ×
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