寝苦しいと感じた矢先、股から七尺七寸の百足が這い出てきた。幅も一尺程で気味が悪い。これはいかぬと思い目を瞑ると、隣には山崎が居た。薬を作っているのだろうか、薬草らしい苦い香りが柔かく鼻をつく。

「斎藤さん、えらい魘されてましたで」

薬に使用する物なのか何なのか、得体の知れぬ目玉が御椀にゴロゴロと転がっている。それが一斉に此方を見て瞬きすらしないものであるから凝視されるのは気が引ける。それを気にするわけでもなく、山崎は斎藤に微笑みを向けた。天井でトグロを巻いた百足が山崎の背後で大きな口を開けている。食べられてしまった。

「斎藤さん、えらい魘されてましたで」

珠のような汗が額からつたい落ちてきた事について、斎藤は確信をする。自身の呼吸と胸の中の鼓動は見事に不幸せと言わんばかり、呼応すらしていない。
重い足取りで立ち上がると、暗い締め切られた障子の前、廊下に座する山崎を見下げながら、斎藤は必死に出口を右左、右、斜め右、左と探した。暗い暗い廊下には蝋燭が一人寂しく、楽しく愉快に揺らいでいる。

「怖い夢でも見たんやないですか」

はだけた着物を腹部に手繰り寄せ、障子に凭れ掛かると、障子は告げ口をするようにガタガタと唸った。生唾を飲み込み唇を噛む、いつもの感覚が脚を伝ってくる。今にも崩れ落ちそうな斎藤を前に、山崎は廊下に座したまま不思議そうに首を捻った。

「薬、塗って差し上げましょか。夕べは酷い嬲られようでしたから、痛いでしょう。それとも、此処から逃げ出しますか」

斎藤は後者を求めている。それはそれは喉から手が出るほどに欲している。山崎は何も言わず、ただ斎藤を黙って見上げるばかりである。答えは無い。無いのが苦しい。無いのは苦しい。
夜なのか夕刻なのか朝なのか真昼なのか、夕べなのか相も変わらず真っ暗な廊下を、斎藤は壁づたいに懸命に歩いた。逃げているのか追われているのか分からないまま、脚がついているのか分からないまま。答えを頂けぬまま歩くのは喉を咬みきられそうだから、怖くて答えなど聞けぬものでして。

「何処ぞに逃げても御主人様に連れ戻されるのに、斎藤さんも逃げるのお好きなんやなぁ。誰ぞ待っとる人でもおるんかいなぁ」

廊下のずっと後ろで山崎は小さく呟いた。



長い長い廊下の向こう側、開く筈が無かった戸が開くと、眩しい外の光に斎藤の瞳孔は色彩を忘れている。酷い目眩と吐き気がしたのはそのせいか。部屋からどのぐらいを歩いたか。
「斎藤せんせぇ?」
声の主は斎藤の肩を抱いた。

「えらい寝坊助さんやなぁ、もうお昼や。昨日からずっと部屋に閉じ籠って寝とったん?姿見ぃひんかったから。ああ、斎藤せんせぇ寝間着の帯、付け忘れとるで」

青ざめた斎藤の白い頬を撫でて、斎藤の肩に自身の羽織を掛け、抱き寄せた。そしていつもの笑顔を向ける。

「そうだ、今日なぁ、斎藤せんせぇに似合う花見つけたんよ。なんの花かよぉ分からへんけど、ほら、ほんまに似合う、綺麗やなぁ」

斎藤の耳元へ簪のように其の花を差し、久米部は無邪気に笑った。笑う度に斎藤の目からは涙が零れるばかりであったが、久米部には其の理由すら何の事だか分からない。泣き続ける斎藤の背中を撫でながら、掛ける言葉は見つからぬ。
斎藤の着物袖から見え隠れする手首の青痣は何を意味しているのか、久米部には到底分かるはずもなかった。

「斎藤せんせぇ、…どないしたん」
「何でもない。久米部に会えて嬉しかっただけ、怖い夢見てたから」
「もう、醒めた?」
「久米部と一緒に居る時だけ、醒めるよ」

ぎゅっと腕を握ってくる斎藤の手は冷たく、久米部はその冷えた指先を温かく大きな手で包み込んだ。じわじわと冷たくなっていく指先はどうしようも無いほどに哀しいと言う。震える心底に何が映っているのか見せはしない。
醒めたのか醒めるのか醒めぬのかと花は心配そうに囁いて、まるで誰かに見付からぬようにと蒼白に染まる。懐へ隠してしまえるものならば懐へ隠すのに。

「久米部に閉じ込められるならいいのに、久米部が閉じ込めてくれるなら逃げないのに」

感情も無い言葉で彼は言った。


end











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