月夜は沈黙したまま口を開かず、全てを傍観したまま消えて往く。触れも掴めも出来ぬ処から覗き、可哀想な程に何を仰っているのかと。其れを傲慢と云うのか失墜と云うのか。
蜘蛛の巣に指先をかけると、囚われていた蝶々は闇夜へと羽ばたいて行った。
(恨めしそう、首を噛み千切られそう)
刃より鋭く針先のような手先で、身体を縛られてしまってはもう、終わるしかない。自覚はあったのか既に無くしているものだったのか、今となっては喪失と消失の輪廻の中。
脚にまとわりつく黒い手に、斎藤は引きずられそうになりながらも立ち眩みを覚えていた。
僅かに傾いた斎藤の身体を、大きな腕が囲う。頬を撫でられた感触が身体の芯を燻らせた。

「こげなとこにおったとか。」

温かい感触が項を滑る。
太股を辿る大きな手に、自身の手を優しく添えた。冷たい夜風に晒された斎藤の身体は、ほんのりと熱を欲している。

「茶菓子が口に合わんかったか」
「美味しゅう御座いました。」
「茶も飲んどらん、…そがんはよ帰ろうとせんでもよかろうに」
「蜘蛛の巣に引っ掛かった蝶々がいたもので」

人差し指を彼方へ向けると、崩れた蜘蛛の巣の端に、鬼のような蜘蛛が佇んでいる。どのような気持ちで此方を眺めているのか、それとも逃がされた蝶々をぐるぐる、たくさんの目一つ一つで追っているのか。そのような目まぐるしい蜘蛛の表情に、半次郎はくすりと笑って何も言わずに斎藤を抱き寄せた。白足袋から、黒い鼻緒の下駄は離れ離れ、泣いている。

「蜘蛛から逃がしてあげたとか、」
「自由もなく囚われている蝶々を見ていると、なんだか切なく感じて…」
「自分も蝶々みたいだと…?」
「そのようなことは思いませぬが」

ゆっくりと首筋に舌が這う。眉を顰めた本当の理由を、心に聞いても不明と言った。いやいやと身を捩ることもせず、斎藤は半次郎の腕に爪を立てる。そして肉に食い込んだ爪痕を心苦しく思うては、指先で何度も何度も愛でた。この行為は、心に聞いても分からぬと指先は言う。

「帰りたいか」
「帰れと仰るなら、」

斎藤には分からぬ事がたくさん在る。
こうやって、何も用が無いのに薩摩藩邸へ連れ込まれ、座敷で優しく扱われる。半次郎は何も言わぬ。首を絞められるわけでもない、政の話をするわけでもない。
(間諜だってこと、知っているのに。)

「何を考えているのです」
「んん、どがんすればおはんが笑うかなぁ、とか」
「…手懐けて拷問しても薩摩に有力な情報は渡せません。…殺すなら、いつだって機会はあったはずです…。」

胸元へ侵入する半次郎の手を、斎藤は着物越しにぎゅっと掴んだ。

「私を利用するのは間違っております。私に利用価値などありません…」
「違う。おいは、おはんが欲しかだけ。そいだけ。それに人は物じゃなかと。利用する、せんの言葉を口ん出すな」

繰り返す息が荒いせいか、肩が絶え間なく動く。求められてると理解出来た時、こうも感情は酷く揺さぶられるのだろうか。
真っ直ぐに心を見透かされている。斎藤が隠してきたものが、意味もない程に流れ出ては底を掻き乱していく。顔が熱い。築き上げてきた自身を覆うものより、何も手にしていない弱々しい自身を半次郎は見ている。違和感に気付くと、とうとう涙が滲んでいた。

「おはんが助けを懇願するなら、喜んで拐うが」

築地塀に斎藤を押し付け、舐めた首筋に色を落とした。黒いあやふやな二つの影が濃く重なっては、吐息が漏れるのみ。脱げた下駄は無惨にも引っくり返っている。下半身を痺れさせるように熱くこもった其れに耐え、斎藤は半次郎に必死にしがみついた。

「中村様、こんなこと、」
「名で呼べ。褥では何度も名で呼んだろう」
「……“利秋、さま”」

(大きな背中、獣みたい。)
噛み付かれながらも地面を見ると、蜘蛛が蝶々を食べていた。どちらも幸せそうな顔をして、愛し合っている、──。
もう、どうしたらよいかなど、斎藤には分からない。どうしたらよいか、考えを巡らせてもくすんだ灰色は黒に染まる。行く先を自身で決められることが出来れば、全てを捨てただろうか。

「本当は、殺されたくなんかない、本当は、」


(拐われて、食べられたい。)


end











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