「記憶が無かった」


粗末な布団の上でなまぬるい茶を啜りながら、物思いに更ける様そう言った。
その言葉に、安富才助は下唇を強く噛んだ。

「記憶が無かった、では済まされません…!」

声が大きいと自覚したのか、わざとらしく咳払いをする。そうして躊躇いながら少しだけ視線を反らした。熱い唾も喉を通らず冷えていく。膝の上で握り締めた拳が、痺れているのか痛いのか、可哀想に怯えていた。


桜が既に散ってしまった後の季節であった。
その日の夕刻、新政府軍の進軍状況を偵察しに行くと出ていったきり。隊長の帰りが遅いと心配し、探しに行った久米部に抱きかかえられて戻ってきたのは、夜更けの事だ。
──隊長と慕われる意識のない男の股からは、白い生足を艶かしくつたいつたい、だらだらだらだらと、“蛇の子白く凝り、蝦蟆の子の如し”のようにだらだら、てらてらと其れは出続けていた。

「蛇にでも犯されてしまったかな?」
「…冗談やめて下さいよ、隊長」

やけに静まり返った白河城内は、まるで息をしていない死体である。
「昔、白蛇の刺青を入れた男に抱かれたことはあるけれど、」
儚い笑みを浮かべる男の心情は、虚無を呼び寄せようとも掴めない。手を伸ばしても指先に温かさすら触れず。今の自分自身が理解出来る筈も無い、決して救えない。無情である。

「俺がいますから、今晩は安心してお休み下さい」

それだけしか言えなかった。それだけで精一杯であった。黙ったまま、安富は羽織をくるくると雑に巻き、それを枕にするよう寝転ぶ。蝋燭の火も直に消える。ぎゅっと刀を抱きかかえた。
(守られてばかりで、俺は隊長を守ることすら出来なかったのか。守ると云っても、こうやって隣にいることしか出来ぬのか、)
曇った感情が心を塗り潰す。

「白蛇の刺青が入った男…」

疲れ果て寝息を立てる男の横で、安富はぽつりと呟いた。言葉が具現化するとはよく言ったもので、どうしたものか足元に白蛇が立っている。するすると男の布団の中から長い身体を出し、揚々と障子を開け、出て行くのだ。
(これは夢なのか、あの蛇は、誰、)
重い身体と重い頭を起こし、安富は抜刀し障子を真横へと大きく開く。

「あ、」

そこには白蛇をもちゃもちゃと喰らう赤目の久米部の姿があった。

「どないしたん?」

ぽん、と左肩を叩かれた時には、久米部は安富の背後に立っていた。振り向いて見ると、黒眼をぱちくりさせながら、久米部は不思議そうな顔をしている。
呼吸がおかしい。言葉もうまく並べる事が出来ない。

「蛇が、居た、…お前、蛇を、食べた…?」

右腕に力が入らず、刀の切っ先は古い床板をガリガリとだらしなく削った。色のない安富の表情に、久米部はくすりと笑う。白い歯が、覗いている。

「何言うてんの、蛇なんかおらんよ」

けたけたと笑って、久米部は眠る愛しい男の傍にみしみしと近付く。冷たい動かぬ右手を自身の両手で掬いあげると、その蒼白い手を頬擦りした。

「安富、お前疲れてんのやない?隊長の御守り、代わろ」
「……。」
「ああ可哀想に、こんなに生気が無い。誰にも屈しないお強い御方が、誰に犯されたんやろうか」

視点は合わなかった。愛しそうに男を見つめ、幸せそうに目を瞑る。
(何かが歪んでいる)
男を抱いて戻ってきた時、悦に浸った顔を少なからずしていなかったか、逢い引きではなかったか、本当に記憶が無かったのか、蛇に犯されていたのか、犯されてしまったのか、白蛇の刺青が入った男、とは誰なのか?泣いていたのか笑っていたのか、哀しんでいるのか嘲笑っているのか、嘘でごまかしているのか嘘で騙されているのか。
(歪めば元には戻れない)


「久米部、お前、最初から隊長を探しになど行ってない、だろう…?お前、追いに行った、のでは?」


首を傾げたまま黙って見つめてくる表情に、安富は身動き一つも取れなかった。ゴトリ、自身の手から刀が落ちてしまった。指は、曲がったまま。

「さあ、どうやったかな、記憶があらへんのやもん」

久米部の着物襟には、べっとりと血がついていた。ころころ、と爪先の目の前を転がっていく物は、白蛇の頭部であった。
(これは不可解、不可避)

「“我死にて復の世に必ず復相はむ”、て斎藤せんせぇが言うてくれはったらなあ…」

その久米部の言葉に、安富は生きた心地がしないままに、蛇に犯された娘の話を頭に唯々思い浮かべるばかりである。


end











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