(その眼は、知らない)

黒々とした眼に群青色や花葉色を散らばせ、夢を見ていた眼しか見たことがなかった。その代わる代わる眼球に興味を持ち、屈託のない人柄に永倉は興味を持っていた事は確かだ。
──だが、目の前にいる灰色の眼をした御方様は、永倉の知らない近藤でもあった。
生ぬるい風、生ぬるい雨、何かから逃げるように永倉は片瞼を手で覆った。
(頭が痛い。)
雲隠れしている満月が少しだけ顔を覗かせたが、自分自身を嘲笑っているようでもある。唇を強く噛み過ぎたのか、口の中は血の味がした。水面に映る月は、既に消えている。ああいうふうに消えたい。永倉は初めて弱音を吐いた。


「本当にどっか行っちゃったかと思った…」


聞きなれた声の方へ顔を向けると、そこにはやはり見慣れた顔がぼんやり、薄暗い中に存在している。雲の動きが殊更鈍くなったようにも感じたが、永倉の視界は透き通った氷柱の其れである。踏み出せば履きなれた草鞋がじゃりじゃりと土を喰らった。気付けば、永倉は斎藤を強く抱き締めていた。

「もうすぐどっか行っちまうよ」

心に余裕が在った筈の永倉の心は、もう呼吸をしていないのだと斎藤は薄々感じている。温かい筈の心は、青い死人の冷たき臓物に似る。
強く抱き留めてしまえば、永倉の心はすぐにも砕け散ってしまいそうな気がするのは何故だろう。

「永倉さん、どうして近藤さんにあんなこと…。」
「俺は思った事を言ったまでだ」

素直に思った事を告げた。
和泉橋の医学所で声を荒げたのは遠い昔のように感じたが、思い返せば思い返す程に永倉の腹の底からは、目まぐるしくもドス黒い感情が溢れ出てくる。
“同志”として意見を言った事に対し、返ってきた近藤の表情は硬かった。隣で腕を組んだまま口を閉ざす土方の視線も、部屋の入口に坐していた斎藤の困惑した顔も、全ての情景が頭の中心に濃く刻まれている。
間違った事は言っていないはずだ。何度も繰り返し、永倉は自分に言い聞かせた。
唯、“同志”として常に近藤と対等にありたかった。
(擦れ違ってはいないのに。悔しい)
永倉が近藤を窘める事は度々あったが、それは“同志”の証でもあり、彼らは常に互いを支え合いながら此処まで生きて来た。それがどうして袂を分かつ事になったのか。胸にぽっかりと空いた穴は塞がる事を知らない。

「千両松でも柏尾でも大惨敗、大阪城から火が上がった途端に腹を切るやつもいた。…おまけに将軍様は夜逃げときた。無益な戦乱を起こしたくねェからそうしたのかも知れねェが、…士気はだだ下がりだ」
「……。」


王政復古の大号令を発し、徳川を無力化しようとする新政府軍と旧幕府軍の衝突が起きたのは、慶応四年正月の事である。
新撰組も戦いの渦に巻き込まれ、多くの隊士を失った。──そんな中、徳川慶喜がひそかに大阪より江戸へと去ってしまったため、旧幕府軍も江戸へと敗走する事になる。
そして恭順の意を示すため、慶喜が上野寛永寺大慈院での謹慎生活に入った事がきっかけで、近畿以西の諸候が次々に新政府側に与する事となった。

(風前の灯とはよく云ったものである。しかし、)
(思ったより事は深刻で、埋まらない溝は広がっていくばかり。きっと、生きていく事はこんなもんだろう。)

濁った空の下は、何が現実か見えてこない。
足を引っ張るは、死人の手。

「…永倉さん、」
「なあ…、俺らの主君は朝敵と見做された会津だろ…?だったら、会津を助けに行くのが俺らの今すべきことだ。甲府何万石だが知らねェ、ンなもん全部くれてやらァ。嘘までついて勝つわけねェ戦して、そんなに会津より自分が大事なのか…?」
「…違うよ、近藤さんは会津に行くつもりだよ」
「じゃあ何で身分に拘ってんだ?取り立てられる事がそんなに大事か?人の命の方が大事に決まってンだろ…。何が援軍が来るだ、あいつの嘘で援軍期待して、どれだけ人が死んだよ」
「この人数じゃあ会津に行っても戦力にならぬからと、近藤さんは人数を集めてから会津へ行くつもりなんです。まず、千住宿の近くの五平衛新田に駐屯して、それから、」
「…嘘をつく必要はなかったと思うが?」

月影が、よよと泣く。
壊れてしまうのではなく、もう既に壊れていたのだと知ったあかつきに、何を想えば良いのか、斎藤はよく分からなくなってしまった。きっと、永倉もそうだ。闇雲に探れど、何も掴めはしないのだ。
夜風に吹かれ、捨てられた風車がカラカラと目まぐるしく回っていた。どうして良いか、どうすれば良かったかなど、誰にも導き出せぬ答えが両手をすり抜けて行く。

「もう終わりだって、近藤さんも分かってるよ…。だからわざと突き放すような言い方をしたんだと思う…。だから近藤さんを悪く言うのはもうやめて」
「じゃあ何だ、自暴自棄になったあいつと一緒に死ねとでも?」
「そんな事言ってない」
「そういう事、言ってンだろ俺に」

無表情の永倉の顔が、自分の顔を覗き込んだ。
冷たい指が頬を擦り、首筋、肩へと滑っていく。左腕の古傷を力強く握られ、斎藤の身体は僅かに小さく揺れたが、それさえ嗤うように、永倉は顔を歪ませている。
手に提げていた提灯は足元で燃えつき、既に死んでいた。ゆらゆら、死出の旅に出かけている。何だか、人の心情を現しているようでもある其れに、感情は有るのかと問いただしたい気持ちにもなった。
月が出ていなくとも、永倉の泣きそうな顔はすぐに分かる。そんな人では無かった筈だが、何を見てきたのだろうか。諭すように頬を撫でると、永倉はやっと重たい口を開いた。

「俺は平気で嘘をつく奴は大嫌いだよ」

軽い口調で言うと、永倉は斎藤の手を引いてゆっくりと歩き出す。何処に向かっているのか分からぬ足取りは、辿り着かぬ行く末を描いている。

「何処行くの?」
「お前を連れて行く」

両爪先にぎゅっと力が入る。拒んでいるわけではない。身体が硬直し、顔すら上げる事の出来ぬ斎藤に、永倉は眉を下げた。

「嫌なのか?いつも俺と一緒に居たのに?」

永倉の薄ら渇いた哂いに、身震いを覚えた。
(こんな暗い眼の人など、知らない)

「嫌なのかって聞いてんだ」
「……嫌じゃない、嫌じゃないけど…今晩負傷兵を連れて、先に会津へ発つ。だから一緒には、行けない」

月が川にきらきらと笑顔を向けている。古ぼけた橋を半ば引きずられるようにギシギシ渡ると、遠くに見える小塚原の明かりが此方に手を振っていた。

「最期の最期までお前はあいつらの狗だよな…」
「…俺自身が信頼してるから、別に狗でも何でもいいよ」
「どうして拘るんだよ…、何で俺の隣に居てくれねぇンだ、お前は」
「ずっと居たつもりだったよ、永倉さんの隣に」
「笑わせんな、」
「ずっとずっと居るつもりだった」

全てが変わってしまったのだと思っていたが、全てが変わったわけではなかった。走馬灯を巡ったとしても、何も掴めやしなかった。

「もうすぐ死ぬような言い方しやがって。主君を裏切るつもりはねぇがよ、お前らの、お前らのその涼しい顔が腹立つンだよ…。諦めたような顔しやがって、少しは焦ってみろよ、焦って泣きつけよ、少しは助けてって何で言えねぇんだよ、お前も近藤さんも…」
「……。」
「死ぬ気で生きる気ねぇだろ?どうせ死ぬと諦めながら、何を守り抜こうとしてんだ…」
「……こんな希望も無い時に生き抜くなんて、馬鹿」

言って口を噤む。
力強く掴まれた胸元に温かさは感じない。突っ伏したまま叢へ倒れたと思ったが、放られた反動で視界は黒い闇を仰いでいる。濡れた露草の雫と、少しだけ湿った土が口の中を汚したが、それさえ味わうように永倉の生暖かい舌が、斎藤の口の中を這いずり回った。
両手を握られたが、右手程力の入らぬ左手を握り返すと、永倉の表情が歪んだ気がする。

「知ってる?守りたいから手放す時もあるってこと、」
「知らねぇよ、そんなもん」
「近藤局長も土方副長も、皆を守りたかったんだと思う」

夢を見ていた眼とは何であっただろうか、それが全ての希望を映すとは甚だしい。瞳の色が万華鏡のようにぐるぐる変わっても、灰色になれば手離すのが正解か、間違いか。
一度も聞いたことは無かった。近藤や土方が何を守っていたのか。分かっていたつもりが、いつしか避けることに繋がっていた。遠くにいたのは、いってしまったのは──?嘘を吐いていたのは、嘘で塗り固めてしまったのは──?

「永倉さんは、…なにを守るって言うの?」
「…俺は、…お前守るのに必死だよ、ずっと、昔からずっとずっと」
「嘘、勝手に逃げて行く癖に」
「お前だって、俺について来る気もない癖に」
「…じゃあどうしたら良かったの……?何が間違いだったか言って、京にいったこと?それとも、俺たちが出会った時から間違いだった?」
「何でそうなるんだよ、馬鹿」

ぐっと永倉の首に手を添える。
遠くで鴉が鳴いた。哀しくて泣いているのか面白くて嘲笑っているのかは分からない。他人の心情が揺らめいているようでもあるが、永倉の首に添えた手は確実に震えていた。

「永倉さんが悪いよ、何でも手放しちゃうから…。ずっと握り締めてくれれば、こんなことにはならなかった。皆、さよならだよ」

一緒に死んで欲しいと願えるのであれば、彼はそうしたであろうか。

「お前だって、俺の手をずっと握ってくれれば良かったのに。会津で死ぬなんてこと、お前も考えなかっただろうに…」
「うん、考えなかったよ、永倉さんがずっと側にいてくれれば、ずっと永倉さんの事しか考えなかったし、永倉さんと一緒に生き抜きたいと願ってた。でも、結局現実は違った。ずっと会津に行きたかった、大切な人の故郷を見て死にたい」
「もう、…会えねぇじゃねえか」
「やだよ、逢える。さようならしても永倉さんには逢える。…逢いたい」

心臓が跳ねた。
離れて行く癖に、心を持って行こうとする。もう会えないと分かっている癖に、会いたいと願ってくる。考える空白など全てが埋まってしまっては、何も思いつかない。一つだけ浮かんだのは、自身より大きい存在が斎藤の中にあるという事だった。手に入りそうな物をいつも手に入れる事は出来ない。永倉が一番知っている。知っていて、いつも手を引いていた。
(少しだけ手を伸ばせば手に入れる事が出来ていた?)
握った拳を振り翳せど、斎藤は眼を逸らす事なく永倉を真っ直ぐに見た。


「本当は永倉さんを探しに来たんじゃない。永倉さんにさようならをしに来たの。」


細かい感情が一々分からない永倉の事を、斎藤は一々よく分かっている。
互いの頬は冷たく、唇はひんやりとした。

「元結、ほどけたの…?」
「さあ…どこでほどけちまったのか知ンねぇ」

永倉の襟足に伸ばした手を絡ませると、くん、と中指に引っかかった。それだけでどうしてこんなに微笑ましいのか、斎藤は理由すら考えたことはない。どこか諦めにも似た感情が、指先まで満ちている。
満ちて満ちて、しかしながら心はいつまで経っても満ちることはない。



end












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