吉栄と初めて出会った時、吉栄は大事そうに古書を小脇に抱えていた。蝉がうだるような真夏の日も、手先が折れそうな真冬の日も古書を抱きかかえて眠る。そんなもんだから、古書の頁は破れ、時には涎が滲みこみ茶色に染まったりしている。また、食べようとした御茶漬けを古書に溢したりして、古書は皺くちゃになり、古書は開く度に懐かしい音を奏でていた。
吉栄の愛読書は誰からもらったのか知らない『竹取物語』である。

「愛してくれとる人を置いて、月に還らんくてもええのに。うち、よう分からんわ」

大事にしていたであろう物語を、吉栄は清水寺の舞台からあっさり捨てた。
小さな頃から物語を何度も何度も読み耽っていた可愛い吉栄が二度と見れなくなったことに、相生は複雑な気持ちになった。しかし、夜が謳歌する闇にひらひらと舞っていく古書は、春に舞う花弁のようで穏やかな気持ちにもなる。そうして、涙は温かいと知る。

「記憶を捨てるのは自害するのと一緒や。何のために不老不死の薬をやったんかは知らんけど、もう二度と此処には戻ってこんくせに、勿体ぶりな女やわ」

あれほど大事にされていた古書は、空の藻屑となった。

「自分は記憶を捨てて、相手には自分を一生覚えておいてもらうなんて、嗚呼おこがましい。そんな弱い奴にうちは決してならん。うちは記憶を捨てたりせん。苦しいことも楽しいこともちゃんと覚えて、心に残して死ぬ時に死ぬ。自分からは死なへん、ずっと姐はんの隣におる、どこにも行かん。だから死なんといてや」

いつも可愛い仕草、表情を見せる吉栄はどこにも居らず、相生自身の手を引いてくれているのは武家の立派な侍に見えた。
鞠をついて遊んだ吉栄の幼顔が少しだけ薄れ、少しだけ寂しい気もしたが、いつだって彼女は私を助けてくれた、相生の目からは想い出がいっぱい零れた。



「姐はん、そこから飛んでも月には還れんし星は掴めんよ」
「そやなあ、うちは阿呆やなあ」
「帰って温かいご飯食べよ」
「うん、ありがとさん、吉栄」
「姐はんは月に還られんし、星も掴めん。うちが手ぇ握っとるから何も出来んの、それでええの、何もせんで何処にも行かんでうちの隣にずっとおるの」


end











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