一寸先の漆黒の向こう側は桎梏など無い様ではありますが、無数の蒼白い手を振られると心の臓がどきりと跳ね上がります故。闇の中に一人は怖い怖いとみな口を揃えて言いまするが、はて、闇の中より幾人もの眼が自身を見ていれば気味が悪う御座います。 見えぬ存在、見える存在、さてどちらが本当に怖いのか、 「平山せんせ、鵺が出そうや」 指を差したその先は真っ暗、靡きもしない着物袖は真っ赤な牡丹を描いている。 「前から出て来るかな、後ろからついてくるかな」 「助けてね、平山せんせ」 寂しい鳴き声が夜空に響き渡っていた。 後ろを振り向けども、何も無い。自身の爪先も良く分からぬ、下駄の鼻緒でさえ赤なのか紫なのか。暗闇と同化した足元を見ていると、止まっているのか進んでいるのかよく分からなくなっている。少しだけ止まったのだと分かるようになった時には、吉栄の隣で歩く平山が足を止めた時であった。 「どうしたん?」 「いや、そこに鬼がいる。」 「……わ、ほんまや」 大きなぎょろりとした眼を煌煌とさせ、大きな口を開き鋭い牙を魅せている。それが数間先に、まあ礼儀正しく立っている。京の都を脅かしてきた物の怪と聞くが、まるで怖い顔とは裏腹に、京の案内人のようにも見えた。ふと、平山と吉栄の頭の中に、何故か芹沢の顔が一つ、ぽかんと浮かんだ。 「吉栄、京ってところは日常的によく鬼が出没するのかい?」 「うち鬼さん見たの初めてや」 すると、二人の目の前を物凄い勢いで火車が通り過ぎて行った。 燃え盛る炎が後ろ髪を引かれるよう灰を撒き散らして逝くが、轟轟としているわりに闇へと消えるのは早い。手元に届いた御御籤の古びた紙には、赤い文字で大吉と書かれてある。 「地獄からの送迎車について行ってみようか」 「ふふ、平山せんせと一緒に根の国」 吉栄の足取りは軽やかだ。 無数に伸びてくる白い手に、干菓子を手渡したりしている。その白き手が吉栄の綺麗な簪を下さいと言うものだから、平山はそれだけは渡せませんと丁寧に謝った。芸子の商売道具だものね、と残念そうであったが、白き手は御機嫌よく還って行った。ひらひらと手を振って、まるで此方へおいでと言っているようでもあった。 「吉栄楽しそうだね」 瞳を煌めかせて頷く吉栄の頭を、平山は優しく撫でる。その仕草を真似る様に、蒼白い手もそのように。最早、知っている道は無く知らぬ道ばかりが広がっているのだが、何だかそれは人が生きる道のようにも思えた。 佇む朱い鳥居はその先が見えぬ程先へ先へと続いている。 「千本鳥居とはよく言ったもんだけど、これは千本以上あるよ」 「行き着く場所は何処なんやろか」 鳥居が密集して並ぶ外には、龍が優雅に泳いでいた。 「京の町を守る四神様は御留守なのかね、」 「おかげで楽しい想い出がまた出来た、平山せんせと物の怪さんと」 「そうだね、楽しかったね、けれどそろそろお別れの時間かな」 平山は懐から煙管を取り出し、刻み莨を軽く摘むと、ふよふよと浮いては消える怪火に、そのまま右手を突っ込んだ。ぼう、と音を立て平山の右腕が青い焔を上げる。その青い焔に巻かれた指先を火皿へ近づけ、そこに詰めて深く吸い込む。煙管の羅宇がきらりと光った。 ふう、と煙を吐いた時には、もう、おしまい。 まわりに朱い鳥居など闇より伸びる無数の手など夜空を自由に泳ぐ龍など何もないのだ。 「平山せんせ、片足川に突っ込んどる…」 「おや、」 全く何も無い河原だった。 「うまく化かされたものだね」 「すごく楽しかった、ありがとう狸さん」 何も無い河原にいた狸が、片方の手に提灯を持ったまま、そして嬉しそうに手を振って闇に消えて行った。 足音、気配を噤む。これにて一夜怪談、物語をお終いとする。 end ← ×
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