そこは生活感もない、ただの部屋だった。
部屋の隅に真っ赤な鏡台が置かれてあって、少しだけ埃を被っている。もう捨ててしまえばいいのに、燃やしてしまえばいいのに、もういなくなってしまえばいいのに。この部屋に足を運んでから、何度も何度も繰り返した言葉だった。

“鎌屋町に居を構えとるんやて、亀屋の芸妓はんを身請けしたやろォ”

花街の女は酒を注ぎながら夢物語のように話す。其れが、本当に現実味も無い夢物語であったらば、


「守ってやるって言った、一緒に居るとも言った、…嘘つき。」


真っ赤な鏡台を力任せに倒すと、容易く鏡は音を奏で、あっという間に割れてしまった。部屋へと差し込む蒼白な月の光が反射して、目が眩む。粉々になってしまった鏡の欠片の上に寝ると、星空の様な情景が広がっていくのだろうか。痛みより、綺麗な優雅さに心を奪われるのだろうか、まるで廓の女を求めるように。

「一、危ねェだろ。何やってンだよ」
「あの鏡台、割ったから片付けてあげようと思った、それだけ」
「俺がするからいい」

星屑は永倉さんの手の中へと鏤められていく。鏡台は哀しんでいる。

「今日のお帰りは此方だったのですね、」
「着替えを取りに来ただけ、すぐ戻るよ。小常の具合が心配だからな」

どうしてこんな事になってしまったのかと自身が考える以上に、相手は何も思ってはいない。これっぽっちも何も思っていなくて、やはりそれらは心を抉り、空洞を広げてしまう。

「…なァ、一、どうしてこの鏡台を割った?」
「そんなこと聞いてどうするの。」
「これ、お前が欲しいって言ったから、俺が買ってやったやつだろ」
「ああ、そうでしたよね、遊女の贈り物のような真っ赤な鏡台、欲しいって冗談で言ったのに真顔で買ってきて、本当に馬鹿ですよね」

そうだな、馬鹿だよな、相槌を打つように繰り返し、永倉さんは哀しい顔をした。

「最初からいらなかった、だから壊しました。別にいいでしょう」
「気に入らなかったか?」
「だったら何ですか、気に入らなかったと言えば、最愛な人にでもあげるつもりでしたか?」
「あれは俺のものだ、お前が捨てたから、俺の、」

否定が欲しい時に否定はない。
永倉さんはいつだって何も言わずに、真っ直ぐ見ている。触れるなと言ったのは自分だし、嫌いだと言ったのも自分だった。それに、ずっと側にいて欲しいなんて恥ずかしい言葉、口にも出来なかった。
だから自身が遊女であったのならば、真っ赤な鏡台を“嘘”なんかにしなくても良かったし、喜ぶ方法や手段を知っていた。
(永倉さんはいつだって、優しい)


「割れた鏡の破片、ぜぇんぶ食べて?そして全部捨ててきて」


すると永倉さんはにっこり笑って、畳に散らばった鏡の破片を全部、本当に全部、唇から血を垂らしながら全部全部食べた。
そうして部屋を出て行った。
鏡の無い鏡台とは言えぬ鏡台を抱え、永倉さんのいない部屋で寂しく泣いた。結局、永倉さんには何一つ伝わっていなかった。何一つ、伝わっていなかった、伝わっていなかった何一つ、何一つ伝わっていなかった。



「昨日、小常が死んだ。早急に葬儀をしてきた」
「そうですか、お気の毒に」
「一。俺さ、“嘘”ついてねェから。」
「なんのことですか…?」


“新撰組の誰やったかァ、あの身請けされた女、産後の肥立ちが悪ぅて死んだとちゃうんやて、首に痕があったらしいんよォ。絞殺死体やねん、ほんまは、”


見納めの京である花街より、三味線の音色に合わせて噂話が舞っていた。

end











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