壁に凭れかかり、掌に握り締めた簪を瞻た。それは真っ二つに折れている。先程、力任せに意図的に自身が折った。噎び泣いた後でもあった。


「簪、大切な物じゃなかったの?」

縁側が一望できる部屋へと顔を出した伊東の問いに、平助は言葉に詰まってしまった。
左中指の爪が欠けている、よく見れば小指と右の親指も。その指で畳に触れ、放り出した脚を屈曲させ、坐した。

「…大切な物でした。」

折れた簪を見つめると、心の中は震え、そうして捨てようと思った想い出が蘇る。死んだ者は生き返る事はないが、幾度心で殺しても死んだ想い出は蘇って来る。忘れる事の出来ぬ苦しい物となって、自身が死ぬまで永久に心で生きている。

「僕に似合うからって、買ってくれたんです。僕の宝物でした。だけど、一は僕を裏切りました」

拭った筈の涙が落ちた。

「ずっと一緒に居ようねって、笑い合おうねって言い合ったのに…。一はあっさりと僕を捨てたんです」
「そう…。」
「信じてたのに、唯一の信頼できる友達だと思ったのに、最悪…。もう顔も見たくないし思い出したくもない…こんなもの、いらない」

折れた簪は平助の掌から離れ、仄暗くも冷たい廊下へと投げ出されると、更に死を主張した。折れた桜の枝の様に、静かに横たわる姿は正に死んでいる。
伊東は死んだ簪から平助へと視線を移し、背中をゆっくりと撫でた。

「平助、もし君が斎藤君を裏切る立場であるとしよう。そうしたら、君が抱いている感情を今度は斎藤君が抱く事になるんだよ」

呼吸をする度に上下に動く。まるで物とは違う表情である。

「僕は一を裏切ったりしないです」
「もしもですよ、もしもの話。考えてごらん」

怪訝そうに眉を下げ、平助は伊東の顔を覗き込む。潤んだ大きな瞳が、悲しそうに泣いていた。

「……もしも僕が裏切って、一を残して何処かへ行ったとしたら……」
「どんな事を思う?」
「…何か理由はあるとしても、僕は逃げればいいって思うだけかもしれない。残す側の人間の気持ち、考えないかも」
「よく出来ました平助、それが答えです。」
「答え…?」
「ただ立場が違うだけで、人間の感情はまるで別物です。でも、人間はもし立場が逆だったら御相子…なんて一切考えない。結局、自分の事しか考えず、自分の感情が正しいと思い願っている。他人と同じ経験をしないと、他人の気持ちが分からない愚かな生き物なんです」

急にまた哀しくなってしまったのか、平助は下唇をぎゅっと噛んだ。

「けれど…僕は残された側の人間だから、怒りの感情が強いです…」
「それも正論。平助は人間として当たり前に抱く感情を持っているんだよ」
「でも…それは酷い感情だなって、僕の醜い感情は止まらないし、どういう感情を抱いているのかさえ、もう分からなくなりました」

袖口を握り締め、遠くを見ている。遠い物など無いのに、彼は遠くだけを見つめていた。
日影の様な感情を揺さぶる様に、陽向の温かい景色が眼を痛める。天秤が釣り合う事は決してない事を、彼は知っている。平助は項垂れたまま、顔を上げようとはしなかった。

「一の事嫌いになっちゃったけど、まだ好きなのかも。また、一と一緒に笑い合いたいって思ってるのかも、ずっと友達で居たいって。でももうダメな気もします、裏切られて一人残された時の怒りの感情が僕を支配してる。許したら良いのかな?僕が許せば……僕が意地を張らなければ…僕の考え方を変えればもう一度やり直せるのかな」
「悩みがあるのは、辛いですね」
「必ず別れがあるから、ずっと必要以上に人とは慣れ合わない様にしてたのに、友達なんていらないって思ってたのに、一の事は友達って思ってた。でも信じた矢先また一人になって、こんな事になるって分かってた筈なのに…僕はやっぱり馬鹿だなあ」
「平助…。」

擲ってしまっては、壊れたのも同じ。佇む限り、足音は遠ざかる事を知らない。嗚咽する平助の頭を撫でると、伊東は小さな身体を抱き締めた。

「いいじゃないですか、迷って苦しんで嘆いて泣いて。生きるってそういう事です」
「辛い事ばっかりでも…?」
「そうです、生きるのは辛いことだから、平助は人一倍人生を謳歌してる。誰よりも強く生きている」

露朝を一瞥し、笑みを浮かべる。

「簪、どこかへ捨てに行きましょうか」
「うん。」


はらりと、いつか見た病葉(わくらば)が舞っていた。

end











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