縋ろうとも、惜しく噎び喀いた掌は黝い血であった。 「此の度は幕府の大御番士、そして奥詰への抜擢。誠におめでとう御座います」 瞑りて御辞宜する。出された茶の中では、桜の花弁が舞っていた。 それだけを見ていたせいか、胡坐を掻いて座る男の顔など、閉じた瞼にも浮かばない。 「山口君、きみ饒舌になったねェ」 「もうその性は捨てました。今は“斎藤”です。」 「いっそのこと名前も変えれば良かったのに、紛らわしい」 声も立てず、わずかに笑う。 「隊士募集だか何だか知らないけど、トシさんと一緒に江戸へ下ってきたのが何でアンタなのかなァ…」 「私を逃がさないためです、そして離れ離れになってしまわないため、それだけ。狂っているとは思いませんか」 「飼われてるとでも自慢気に言いたいの?馬鹿にしてる?」 磴のぼれば淡紅と紅紫、合掌より赤い血。漣の音が聞こえたが、漣の音など聞いたこともなかった筈である。 閨の燈籠の様に、粗末な花瓶に入った薊が揺れていた。 「哀れんでいるのです。貴方は、歳三さんに早く此処へ帰ってきて欲しいと願っている。歳三さんが江戸に来る此の日を楽しみにしていた筈、なのに歳三さんは私と共にあって、歳三さんは貴方の嫌いな私しか見ていない」 「あれ、オイラ昨日の酒の席でそんなことクチにしてた?トシさんが夢見てた武士にやっとなれたねって、もう立派なお偉いさんだねェって言ったつもりだったけど、」 「言ったつもり、でしょう?」 訃がひとつ、落ちて往く。 「伊庭さんが大好きな歳三さんはもういません。歳三さんは山南さんを殺してしまいましたし、近藤さんと創る新撰組の更なる名誉と栄光しか考えておりません。そして私をどうやって手籠めにするか、それだけしか考えておりません」 「そういう冗談は嗤えねェんだけど、」 「冗談ではないので嗤わなくて結構です。それでも、貴方は知らないふりをして京での出来事を歳三さんに聞いてしまうのでしょうね」 跪坐より退れども、緘じる唇は何も言わない。 黒漆塗鮫が結玉を喰ろうておる。 「こんな雨降りにどこへ行く気」 「そろそろ歳三さんが帰ってきます、だから、逃げるのです」 「逃げるって、何処へ」 「明日の朝には帰りますとお伝えください。私だって、久方ぶりの江戸ですから…捨てきれない想い出を思い出したりして、恍惚に耽りたいのです。」 逃げる手先を掴まえた。蔵い忘れる術はない。 「あんた、不自由なく何でも与えられる身のクセに、自由にでもなりたいって思ってンの?」 「貴方みたいに、深く求められず何にも縛られない人の方がずっといいに決まってる。私はずっと好きな人がいるのに、それをあの人は許さない。あの人の愛する人が貴方だったらいいのに、貴方が苦しめば良かったのに、とても狂っています」 「そんなの、愛されない方が苦しいに決まってるだろ──」 「いいえ、それは間違っています。最初から、あの人は狂っていました」 斎藤の嬲り脅えた眼を瞻ると、咎めることも心に痛みを感ずることも出来なかった。 「伊庭さん、お願い。奥州街道の手前の千住宿、ずっと昔に好きな人と幾度も別れを惜しんだ所に行きたいから、だからお願い、あの人には言わないで」 「…傘持って行かねぇと、濡れるよ」 「いいえ、いりません。大きな赤い蛇の目傘をさしているとすぐに見つかってしまいます。好きな人との想い出の場所で手籠めにされては、溺死するのと同じです」 「ねえ、狂ってるって何が、」 「もうすぐ気付く筈です。あの人がいかに狂っているか、」 雨傘もささず去ぬ、その姿を障子の隙間より窺った。現身と云えぬ程、泥沼の中の足跡は直ぐに消えている。擱いた薊が此方を見ている。 謂は分からぬ、遠を累ねると傾ぎて割れた花瓶は畳へ滲みを作った。 「伊庭、」 冷たき指先が頬へと触れる。見上げてみると、困った顔が其処には在った。 「トシさん、いつ帰ってきたの」 「今だよ。そうしたらお前がアホ面下げてそこにボーっと座ってるから…」 「そうだ、トシさん。俺さ、トシさんが帰って来たら色んな話をしたかったんだ、昔みたいに。…京の女はどうだとか、くだらない話。」 「…なァ伊庭、斎藤は何処へ行った?」 離るべくして、而して静寂も在る。氷面鏡に映る様に、むやみに漫ろは濺がれまい。 「──馬はあるか?行かねばならぬ約束を思い出した」 「トシさん待てよ、外は雨だぜ?オイラに京の話でもゆっくりさァ、」 「千住宿まで行ってくる。」 「何、で、」 「江戸に戻ったら、一度はあそこに泊まろうと斎藤と約束していたんだ。今ここに斎藤がいないって事は、あいつは先に千住宿へ行ってるって事だろう?なぁ、あいつから伝言をもらわなかったか?」 「あの子との想い出の場所、なの…?」 「別に想い出の場所でもないが、行きずりだよ唯の」 託事も見つからなかった。 「あの子さ、大きい真っ赤な蛇の目傘さして浅草橋の方へ行ったよ…だから馬を走らせても人混みの中であの子を見つけるのは大変だし、それに赤い傘さしてる人なんていっぱいいるから、」 「大きな赤い蛇の目傘を必ずさしなさいと言いきかせたのは俺だよ、だからあいつは傘もささず雨に濡れながら今頃、奥州街道の手前を懸命に走っていることだろう、俺に見つかるまいと必死になってね」 白い薊を握り潰し、土方は部屋を出て行ったきり戻っては来なかった。 縺るるを行方と称し、軈ては澱みたり。 「嘘付きだなぁ、狂ってる。」 end ← ×
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