「兵助、泣くなよ」


久しぶりとは程遠く、最近といえばそうでもない、そんな兵助の相談事を聞いていると、その話の途中でボロボロ、長い睫毛をしぱしぱさせながら、黒髪の彼はわあわあ泣いてしまった。

「目、腫れちゃうよ」

そしてその前に俺の着物が兵助の鼻水と涙で、ぐっしょぐしょになってしまうよ。青色の制服がもっと濃い青色になってしまう、大きなシミ作ってさ、それは何だかやめて欲しいような可哀想だと思うような…。

「勘右衛門…。」

ピタリ、名前を呼ばれてビクリとした。だから一応ごめんと謝った。
泣いて上下に揺れる肩を優しく叩いてあげると、どこか気に障ってしまったのか触れたのか、兵助は上体を起こし少しだけ遠ざかる。かと思えば未ださめざめと泣く。制服は既に、濃紺に染まっていた。

「何で泣くの?悲しいの?」

こくりと頷く兵助自身の悩みとは、些細な事で八左ヱ門と喧嘩をしてしまったことにある、らしい。理由はくだらないことだったと本人は言う。きっと兵助の大好きな豆腐を八左ヱ門がああだこうだ、もしくは八左ヱ門が委員会で飼育している毒虫を兵助がああだこうだ、こんなところだろう。まあ単に言えば、原因はどうであれ八左ヱ門に酷いことを言ったと兵助は泣いている。

「八左ヱ門も泣いてる」

部屋の隅を指さした。だって確かに八左ヱ門の左目からは涙が出ていたのだ。右目はよく分からなかったけれどあれは色のついた涙だった。
それでも兵助はお互い様だと決して言わない。自分だけが悪かったのだと自分自身を追い詰める。いつもは仲の良い二人が、まさかこんなことになるなんて、俺は全く予想さえしていなかったのだ。
(しかし、ごめんねの一言で済む話ではないのだろうか、)
いつもはうるさいのに喧嘩をすると黙る八左ヱ門は、今も黙止を続けている。いつもは冷静なのに喧嘩をすると戸惑う兵助は、今も頭を抱えている。
(迷うことはないのに、簡単なことなのに)

「ねぇ、兵助はもっと素直になるべきだよ。八左ヱ門も兵助のこと分かってくれてるよ」
「解ってくれてないよ、だって俺、本当に酷いこと言ったんだ」
「分かってくれてるよ」
「解ってくれてないよ、さっきから八左ヱ門の返事もないじゃないか」
「うん、だから、兵助がごめんねって謝ったらいいんじゃない?」
「だから、さっきから謝ってるんだってば、でも八左ヱ門なにも言わないで気難しそうな顔して、首傾げたままコッチ見てくれないんだ」

俯いてしまった。
俯き加減は八左ヱ門の方が深いのだが、何を考えているのかは分からない。

「兵助がごめんって謝ってるよ」

声を掛けても八左ヱ門は髪の毛を一本も揺らさず、俺の顔さえ見ることはなかった。視点が合っていないのだ。しかし、仲直りは必ずできるものだと知っていた。それが友達だという理由も知っている。だから泣くことはないという理由も知っている。

「兵助はたまに笑って、ぼーっと遠く見てる方が似合ってる」

こうやって友達である兵助を慰めることは案外むず痒いもので、自分自身には似合っていないのだと感じた。
(泣かれる方も、喧嘩を見る方も結構辛いんだよ)
ガタガタ震える兵助の頭を撫でると、絡むは絹のような髪。ぐらぐら揺れる八左ヱ門の頭を撫でると、絡むは麻縄のような髪。

「二人とも仲直り、だよ」

鼻をすする音が部屋に響き、水音がヒタヒタ高音域を乱していく。

「八左ヱ門、許してくれてるかな…?」
「許してくれてるよ。だって八左ヱ門はさ、気を許す相手しか喧嘩しないだろ?兵助は確かに酷いことを言ったかも知れないけどさ、それって真っ向から受け止めてくれたってことだよ」
「そう、かな…」
「じゃなきゃ喧嘩しても同じ部屋にいるわけないじゃない」
「そう、…だよね。俺のこと、許してくれてるよね」
「ん、許してくれてる!ねっ八左ヱも…」

名前を呼ぶ最中に八左ヱ門はガクリと大きく頷いた。無言ではあったが、だらんと大きな手が兵助に向けられる。照れ隠しのつもりなのか知らないけど、彼は彼なりに兵助と仲直りする方法を黙って考えていたのだ。俺はその重たい手を握り床から持ち上げ、兵助の冷たくなった手を身体から引き寄せた。

「はい、二人とも握手して仲直り!」

そこにやっと笑顔が生まれ、俺はやっと胸を撫で下ろした。先程まで濡れていた制服は乾き、濃紺とは疎遠になっていたが、兵助と八左ヱ門の制服だけは濃紺の泥沼から抜け出せてはいない。
(二人とも泣きすぎだよ、友達思いなんだねぇ。

でも、

ちょっとだけ注意してもらいたいことがある。
このような事が毎回あっては見つかるのも時間の問題なのだから。)

「兵助、その、君さ、見かけによらず短気じゃん?」
「うん、」
「短気は直した方がいいよ」
「うん、ごめん」
「でも俺は兵助のこと友達だと思ってるから、」
「有難う勘右衛門、俺も友達だと思ってるよ」
「だからさ、埋めるの手伝うよ」
「ごめんね」

兵助は紙で寸鉄を拭き、押し入れの箱の中にそっと直した。

「兵助、部屋がこんなに血まみれじゃあ布団なんか敷けないぞ」
「勘右衛門の部屋に行ってもいいかい?」
「それは構わないよ」


転がる変色した手と握手をして、兵助は何を思ったのだろうか。ごめんね、と一言だけ告げていたのだろうか。
鼻唄を詠う兵助と泣き続ける八左ヱ門の顔は、やけに対照的であった。

end











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