「綾ちゃん、帰ろっか」

夕暮れの中、困ったような顔で笑った。困ったような、ではなく、彼は確実に困っているのだと、土手に腰掛けながら綾部はふと思ったのだった。
それがむず痒くなって視線を逸らす。蛇が兎を食べていた。


眠たい眠たい朝食時、今日は髪結いである実家の手伝いをしに行くと、タカ丸は眠たい眠たいと呟く綾部に話をした。授業はお休み、委員会もお休み、眠たい眠たい、だからお手伝いに連れて行ってお願いしますと、落ちたご飯粒を拾いながら綾部は返事を返した。小松田さんは相変わらずサインにうるさかったが、学園を出たのは久しぶりであった。肩を並べて、とは程遠く、背の高いタカ丸を見上げながら、綾部はタカ丸の笑顔を目に焼き付けつつ隣を歩いた。暇潰しには良いと思った。
(面白そう、だと思ったのに、)

しゃがみこんだまま動かない綾部に、タカ丸は手を差し出す。その手は泥だらけであり、向けられる笑顔とは全く同調などしていない。
(つまらなかったな)

「鋏、諦めちゃうんですか…?」
「うん、…まぁ見つからないものはしょうがないからね」

夕暮れの帰り道、土手下に髪結いの道具一式を落としてしまった。散らばった中身は草むらへ消え、探せども探せども、一本の鋏だけが見つからない。
膝をつき草を掻き分け、一生懸命に鋏を探すタカ丸の姿を、綾部はじっと見ていた。

「僕がタカ丸さんの髪結いの道具、落としちゃったから…僕が悪い?」
「ううん、綾ちゃんは悪くないよ。荷物持たせてごめんね」
「あれは僕が持ちたいと無理矢理言ったからで…」
「うん、でも本当にごめんね。土手下に落ちたのが綾ちゃんじゃなくて道具で良かったよ」

胸が痛むというよりも、タカ丸が任務を失敗し、簡単に死んでしまう事の想像が安易にできた。
(蛇に食べられる兎のように綺麗ではないと思う。ぐちゃぐちゃだと思う、きっと)
兎が頭をのまれながら足をバタつかせている。
(おや、蛇に食べられる兎も綺麗ではない、ぐちゃぐちゃだ。)

泥だらけのタカ丸の大きな手を、振り払った。
そうしてタカ丸が一生懸命に探していた鋏を、いとも簡単に懐から出したのだ。

「あっ、鋏!」
「実は髪結い道具を落としちゃった時、これだけは僕がそっと懐に隠してたんです」
「そうだったんだぁ」
「タカ丸さんがずっと鋏を探してる姿、面白くて」
「え?…あはは、泥だらけだったもんね。でも鋏があって良かった。綾ちゃんありがとう」

遠くの稲穂がおいでおいで、と手招きをする。山が黒く染まる。目の前には微笑んだ長身の男が一人。蛇は一匹、兎という名称の個体が一つ。頭上に赤蜻蛉が路頭に迷い、宿場と墓場を探している。
「どうして?」
あれは大蛇の腹の中で問うたであろう。


「タカ丸さん、今日はつまらなかったです」
「えっ、ごめんね…!…そうだよね、髪結いの仕事なんて見てて飽きるよね…」
「飽きました。だって、」
「だって…?」

自殺をするようにグッ、と着物の上から鋏を押し付けた。
(心臓は此処だと思った、違っても此処が心臓、刺してもいいよ僕のを。)

「だって、タカ丸さん、女の人たちといっぱい笑ってた。それが、嫌でした。…タカ丸さん僕の前髪切ってくれるって言ったのに」
「うん、」
「不細工な人たちの髪ばっか切って、楽しそうにしてました。僕のことなんか忘れてたでしょ。不細工な人たちの髪なんか切ったって所詮綺麗にはならないのに、どうしてタカ丸さんは無駄なことをするの?」
「…ええっ?」
「不細工はなにをしたって不細工なのに。…不細工な人たちの髪を切ったその鋏で、もう僕の髪を切らないで、二度と切らないで。もうこんな鋏なんかいらない見たくない」

すっかり薄暗くなってしまった草むらに鋏を投げると、音もなく消え去った。
また土手下へ急いで走り、泥だらけになりながら鋏を探せば良いと思った。そうすればするほど、自分自身は心地好くなる。笑える。今日一日のつまらなさが面白さに変わる。いっそのこと、蝮に咬まれて死んじまえと期待した。

が、目の前の長身の男は綾部の前からは一切動こうとせずに、綾部の名ばかりを呼ぶ。そして鋏を決して探しに行こうとはしないのだ。

「綾ちゃん、」
「…なんですか」
「やっと返事してくれた」
「返事をしないとタカ丸さんがうるさいので…」
「…ごめん。」
「あの、……なんですか?」
「…今日は仕事に夢中になっててごめんね?…綾ちゃんがお店手伝ってくれたの、凄く助かったよ。ありがとう」
「……。」
「ええと、さっきの話なんだけど…。不細工だとか綺麗だとか、さ、…そういうのは関係ないと思うんだ」
「関係あります。不細工は嫌、見ているだけで吐き気がする」
「綾ちゃん…。」

どうして太陽は沈んで行くのかと、悩ましく思った。何もできないことが疎ましいと感じた。ぐらぐらする頭の中で碧を見ながら堕ちていく。
肩に触れたタカ丸の手は、温かいだけである。

「もう…僕をさわらないでったら!汚いから…!滝にも三木にもさわっちゃダメ!」
「ごっ、ごめん…。泥だらけだもんね…」
「泥じゃないです……。不細工な人に触っちゃったからタカ丸さん汚いんです。そんな汚れた手で綺麗なものを触っちゃったら腐れて死んでしまいます」
「綾ちゃん…そんなこと言わないで…?」
「だってありえないありえないありえない…!どっか行っちゃえば!」
「わっ…!」

突き飛ばしたつもりだったが、腕を握られて土手下へ一緒に転がり落ちた後、最初に見たのは一番星とタカ丸の顔であった。
身体はギシリギシリ、痛くはあるが頭はタカ丸の腕の中にある。こんなことになるのならば、頭痛にやられて暗闇に死ねばよかったと後悔している。

「綾ちゃん大丈夫だった!?」
「……タカ丸さんのせいです。タカ丸さんだけが…落ちるはずだったのに、タカ丸さんが僕の腕掴んじゃうから……」
「わぁぁ本っ当ごめん!泣かないで…!」
「………泣きません、」

その割に鼻がツンとするのは何だろう。目頭が熱くなるのも、水面を見ているのも。景色の歪みさえも。
(嫌だった、タカ丸さんが他の人と仲良く喋ってるの。勝手について行ったのは僕だった。タカ丸さんは仕事中でも、僕を気づかってくれていたのに、微笑んでくれていたのに、僕は見てみぬふりをして手先だけ、他人の髪に触れている手先だけを見ていた。)

草むらに手をつくと、先程投げた鋏が偶然にも薬指へと触れる。放り投げられた鋏は、見つけられた事が嬉しかったのか、拾い上げられた事が嬉しかったのか、幸せな顔をしていた。
「タカ丸さん、鋏。これで僕を殺して下さい」
そう言ってタカ丸に大事な鋏を手渡すと、どうしてそんなことを言うの、と恐い顔で叱られ、唐突に抱き締められてしまった。

「殺してなんて言わないで」
「どうしてですか?僕はさっき、タカ丸さんを突き飛ばして殺そうとしましたよ、死んで欲しいって思いました」

けれども、二人共々土手下に落ちてしまえば互いに蝮の餌である。
何も傍観できない。少なくとも溜め息は四度出た。

「綾ちゃんはそんな子じゃないから、嘘だって信じてる」
「単純、ですね」

五度目の溜め息は安堵したものであったと感じる。言いたいことは中々感情の荷車には乗れないが、今は目の前に辭が鎮座しており、こちらを睨む。
触れてみたいと、はたまた単純に思ったのだった。

「…あの、タカ丸さん」
「なぁに?」
「ごめんなさい。」
「こっちこそ、泣かせちゃってごめんね」
「ごめんなさい、ワガママばかり」
「ごめんね、綾ちゃんの気持ちに気付かなくて」
「…タカ丸さん、僕は不細工ですか?」
「不細工なんかじゃないよ、綺麗だよ」
「前髪、切ってくれますか?」
「うん、勿論」

綾部の小さな歩幅に合わせた帰り道は、あっという間に終わってしまった。
小松田さんがおかえりと、にっこり笑う。
(今日一日、楽しくなかったけど、学園に戻ったら更に楽しくないって事は、タカ丸さんと一緒にいた時は楽しかったんだ。)
笑うことはなかったが、楽しくないとは勘違いしないでね、といった意味で綾部は繋いだ手をぎゅっと握る。それからすぐにタカ丸がぎゅっ、ぎゅと手を握り返してきたが、自分が言った事に対しての返事ではないと分かりきっている、のに、タカ丸の二の腕をつねってしまうのは自身の無自覚な悪戯だったのだと綾部は自覚した。
今日も満月だった。



「長屋についたので、もう手を離してもらってもいいですか?」
「うわっごめん!綾ちゃんの手汚くなっちゃったね…!」
「あの、それともお風呂に行く時まで手繋いでおきますか?」
「えへへ、それもいいね」
「タカ丸さんって優しいんですね」
「えーほんとぉ?」


左手で頭を掻きながら困ったような顔をしている。それは本当に困っているのか照れているのか嬉しがっているのかはよく分からない。
(へんなひとだな、)


それが今日一日を通しての、タカ丸に対する綾部の立派な感想である。
(へんなひとだけど…)
ちらちら見える星をじっと見つめ、何を願ったのかは記憶にない。隣を歩く能天気な男は、星さえ見ることもなく鼻歌を奏でるばかりであった。

(委員会がお休みの日、今度はいつだろう)
タカ丸の鼻歌を聞きながらも考えていたのは、これだけである。

end











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