「千鶴」
呼ばれた本人が此方へと振り返る。
呼んだのが俺だと分かると、彼女は酷く驚いていた。
無理もない。
今日このとき初めて、彼女を下の名で呼んだからだ。
「斎藤、さん?今、私のこと…」
「…皆が、何時までも名字では余所余所しいのではないか、と」
ゆえに実行したまでのこと。
…それともう一つ、気にかかることを言われた。
皆が彼女を下の名で呼ぶようになった中で、
自分だけ呼ばないのは何故なのか。
と千鶴本人が寂しそうに零していたらしい。
(勿論、この話が本当なのか疑わずにはいられなかったが)
だが、確かに唐突すぎたかもしれない。
「嫌だったか」
「そ、そんなことありません!
その…凄く嬉しいです」
その言葉の通り、彼女は頬を染めて至極嬉しそうに微笑んだ。
そう彼女の笑顔を見たことのない俺は、こんな風に笑うのかと
少なからず見惚れてしまっていたのだと思う。
「斎藤さんだけ、名前で呼んでくださらないので
距離を置かれてるのかなって、少し寂しかったんです」
だから本当に嬉しいです、と俺を真っ直ぐに見つめる。
千鶴には長い間窮屈な思いをさせている。
こんな容易なことで喜んでくれるのならば、もっと早くから実行していれば良かった。
…元々、俺自身も下の名を呼ぼうと思っていた。
が、その機会をなかなか見つけられずにいた。
理由もなく突然呼べば驚かせてしまうだろうと。
(単に口実が欲しかっただけ、か…)
結局のところ、そういうわけだ。
「これからは皆さんの前でも“千鶴”って呼んでくださいね」
いつの間にか考えに耽っていた俺を、千鶴の弾んだ声が呼び戻した。
勿論、彼女の望むことを実行するつもりではあるが…
その後の皆の反応が容易に想像できて、俺は心中で一つ溜息を零した。
そして、後に俺は
名を呼ばれたいという想いを、身をもって知ることになる。
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