いつもなら誰も使わない調理室から騒がしい声がする。
誰が使っているのだろうか。
疑問を抱いた真木は、その存在を確認するため扉を開けた。
「……………」
中にいたのは数人の女の子と、2人の女性。
「あら司郎、どうしたの?」
その内の一人であるなまえは、真木の存在に気付き声をかけた。
「これは…」
「あぁ、バレンタインのチョコレートを作りたいって言うから、私と紅葉が教えてるのよ。」
苦笑して話すなまえに、真木は眉間の皺を深くする。
「っ、真木さん!」
真木の存在に気付いた澪が叫んだ。
彼を見て焦っているようだ。
「大丈夫よ。司郎は誰にも話したりしないわ。」
そんな彼女を見てなまえは笑いながら返す。
「なまえ、カズラ手伝ってあげて!」
「わかった!じゃあ戻るわね。」
紅葉に呼ばれたため真木に一度別れを告げると、なまえはカズラのもとへ行ってしまった。
残された真木は、甘い香りの充満した女性だけの空間に、居続けることを躊躇う。
耐えられず外に出たが、部屋に戻る気にもなれず彼女らの調理が終わるのを待った。
「できたー!」
扉の向こう側から、誰かが歓喜の声を上げたのが聞こえた。
誰かのチョコレートが完成したのだろう。
あとから他の者がおめでとうと言っているのも聞こえてきた。
真木は扉を少し開け、中の様子を伺った。
「少佐、受け取ってくれるかな…」
「大丈夫よ。自信持って。」
完成したチョコレートであろうものを見つめながら不安がる澪を、紅葉が勇気づけている。
「カズラもよく頑張ったじゃない。」
その近くで同じように不安がっているカズラを、なまえもまた勇気づけていた。
彼女らは他の少女らのもとにも同じように徘徊している。
このまま見ていようかどうか真木は悩んだが、すぐに誰かが駆けてきたので扉から離れた。
「ちょっと!片付けくらいしなさいよ!」
完成したチョコレートを持って部屋から逃げるように去っていた数人の少女に、カズラが叫んでいる。
「仕方ないわよ。澪もカズラも頑張ったし、片付けは私たちがやっておくから戻っていいわよ。」
なまえがそう言うと、2人は嬉しそうに表情を輝かせた。
それと同時に紅葉が顔をしかめる。
笑顔で礼を言い、出ていった澪とカズラ。
中にはあと何人が残っているのかと顔を覗かせた真木は、今出ていった2人を羨ましそうに見ていた紅葉と目が合った。
「真木ちゃん!私の代わりに後片付けよろしく!」
「な…!」
突然のことに驚く真木を他所に、紅葉は先に出ていった2人を追いかけるように調理室を出ていった。
残っているのは、真木とその存在に驚き目を見開いているなまえ。
「司郎、帰ったんじゃないの…?」
「戻る気分にもなれなくてな。」
そう言いながら調理室に足を踏み入れた彼を見て、なまえは苦笑する。
「私がやっておくから先に帰っていいわよ。使ってもないのに片付けさせるのは忍びないわ。」
そして真木に背を向け、チョコレートまみれのたくさんの調理器具を眺めた。
彼女の言葉に真木は眉間の皺を深くする。
気に入らなかったのか、彼はなまえの言ったことも無視してチョコレートの付いたボウルを手に取った。
「ちょっと、別にやらなくてもいいって…」
「うるさい。」
不機嫌なその口調に、何を言っても無駄だと判断したなまえは、微かに笑って片付けを始めた。
2つの流しの前に並んで立ち、彼らは黙々と器具を洗っていく。
だがその途中、真木がべっとりとチョコレートのついたゴムべらを見つめて動きを止めた。
「…どうかした?」
彼の行動を不審に思ったなまえは、同じように動きを止めて彼を見る。
「いや…」
否定の言葉を発したが、真木は依然として動こうとはしない。
ただゴムべらを見つめている。
その様子で、なまえは何となく彼の心情を察したようだ。
「悪いけど、私からのチョコは期待しないでちょうだい。」
静かにそう告げたなまえに真木は目を見開き、へらから視線を外して彼女を見る。
だがすぐに再びへらへと視線を戻すと、軽く目を伏せ自重気味に笑った。
「あぁ。」
短く返事をし、甘いものは得意ではないと心の中で呟いて、真木は洗い物を再開させる。
なまえは彼の返事に顔を僅かにしかめたが、自分も洗い物を再開させた。
***
「なまえ?」
バレンタイン当日、真木はパンドラアジト内を歩き回っていた。
なまえの姿が朝から見えない。
自分が目を覚ましたときには既にいなくなっていたのだ。
出掛けることはよくあるが、黙って消えたことはほとんどない。
ただでさえ広いアジトで探すのが困難だというのに。
真木は一度自室に戻り、携帯でなまえに電話をかけてみた。
しかしそれが繋がることはなく、聞こえてくるのは機械の音だけ。
「…今日はなまえに任務は無いはずだが……何処へ行った…」
自身の苛々を抑えるため、独り言のようにそう呟く。
仕方なく、“今どこにいる”というメールを1通送り、真木は返事を待つことにした。
部屋を出てリビングに行けば、女性陣がチョコレートを配っている光景が目に入った。
その中になまえの姿はない。
「あ、真木ちゃん。」
真木がリビングに入ってきたのに気付いた紅葉が彼のもとへ歩み寄ってきた。
「はい、あげる。」
渡されたのは小さな紙袋。
口の折られたそれからは、微かに甘い香りがした。
「義理だけどね。」
渡された紙袋を受けとるかどうか躊躇する真木。
しかしこれも彼女の厚意なのだと、素直に受けとることにした。
その光景を見てか、他の女性も集まってきた。
いつもありがとうございます、という義理らしい言葉を添えて次々と小さな包みが渡される。
渡される度に困惑で眉間の皺が増える真木に、紅葉は苦笑した。
「大丈夫、義理だってわかってるんだからなまえも怒らないわよ。」
「…っ…あぁ、そうだな……」
ぎこちない彼の反応に、まわりの女性陣が不思議そうな顔をする。
「…何?もしかしてまだ……」
「……………」
目を逸らし、言葉を発せなくなってしまった真木に、まわりの空気が重くなった。
「……あー、そう…そういうことね……」
ひきつった表情で紅葉が言う。
他の女性たちは、その空気に耐えかねて去ってしまった。
沈黙が痛い。
「っ、葉!ちょうどいいところに来たわね!」
いいタイミングでリビングに入ってきた葉に声をかけ、紅葉も行ってしまった。
「………………」
残された真木は呆然と立っていたが、しばらくすると渡されたチョコレートを何とかするためリビングをあとにした。
再び自室に戻り、先程受け取ったチョコレートを見つめる。
「義理チョコを配るのが面倒で逃げたか…」
なまえは他の者にチョコレートをせがまれるのが嫌だったのだろう。
そういう結論に辿り着き、真木は溜め息をついた。
恋人である自分にでさえバレンタインは諦めろと言った奴だ。
義理チョコなど用意するはずがない。
「今日は帰ってこないかもしれないな……」
自嘲気味に笑い、彼はベッドに寝転がった。
数分天井を見つめたあと、一度目を伏せ再び開く。
そして起き上がると、仕事をしようとパソコンを立ち上げた。
「…ふぅ……」
デスクワークを終えた真木。
気付けば外は暗く、パソコンの電源を切った状態ではまわりが見えなくなっていた。
ポケットに入っている携帯を取り出し、今朝送ったメールの返事を確認する。
しかし返事はなかった。
部屋の電気を付け、彼は疲れた目を休めるため目頭を揉む。
ずっと同じ姿勢で画面を見ていたせいか、肩も凝った。
首をまわして凝りをなくそうとする。
すると、今朝もらったチョコレートが視界に入った。
疲れている今、あれを食べれば癒されるのだろう。
手を伸ばし、数個ある包みのうちの一つを取る。
だが真木がそれを開くことはなかった。
見た瞬間、頭を過った考え――
なまえのチョコレートが食べたい。
彼はそう思ったのだ。
甘いものは得意ではないが、市販のブラックチョコくらいの甘さなら、と。
「……くだらんな。」
貰えるはずもないものを欲したことに呆れ、自己嫌悪に陥る。
自分が愛しているのと同じように、彼女も愛してくれている。
それで充分ではないか。
しかし、それでもなまえからのチョコレートを受けとりたいと思ってしまう自分がいた。
「まったく、情けない…」
真木は溜め息をつく。
その時、部屋のドアがノックされた。
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