「ねぇ真木ちゃん。」
「何だ。」
「……何でもないわ。」
このところ、よくこんなやり取りが繰り返されている。
だが意味もなくしている訳ではないのだ。
「まったく、言いたいことがあるのなら言えばいいだろう。」
「だから何でもないのよ。」
嘘。
なまえには真木に対してとても言いたいことがあった。
名前で呼んでもいいか――
せっかく付き合ったのだ、やはり彼のことを名前で呼んでみたい。
だが当の彼はそんなこと気にしたこともないだろう。
「マッスルは時々呼んでるのにな…」
彼の場合は本人から許可を得たりしたわけではないだろうが。
それでも羨ましくはあった。
「おいなまえ。」
「っ、何?」
いきなり声をかけられ、少し上擦った声が出る。
「悪いがそこの資料を取ってくれないか?」
「あぁ、これね。」
なまえはテーブルの上にあった書類の束を彼に手渡した。
「どうぞ。」
「すまないな。」
そしてまたソファに座り、彼女は真木の仕事姿を見つめる。
彼は、名前で呼ばれることを快く思わないのだろうか。
ふとそんな疑問がなまえの頭を過った。
どんなに親しい間柄の人にも苗字で呼ばれている彼は、名前で呼ばれるのが嫌なのかもしれない。
自分はあまり一緒に過ごした記憶がないため、そういった話を聞いたことはないのだが。
「なまえ。」
「どうしたの?」
また真木がなまえを呼んだ。
今度は驚かなかったらしく、返事は普通にできたようだ。
「悪いがこの資料を読み上げてくれないか?」
「いいけど…」
指示された資料は先程プリンタから出てきたもの。
「何の資料なの?」
「パンドラにいるメンバーの資料だ。一人一人の名前を確認するためにある。」
「できてるなら読まなくても大丈夫なんじゃないの?」
彼の言葉に違和感を覚え、なまえは問い掛ける。
「フリガナをふらなければならないんでな。苗字には自信があるんだが、名前はあまり覚えていない。」
「私が間違ったらどうするのよ。」
「漢字はこちらに控えてあるから、もし奇妙だと思ったら後で検討する。」
彼女の質問に真木はさらりと答え、プリンタから出てきた紙の下部を折った。
そして彼女に渡し、キーボードに手を添える。
「じゃあ読むわよ。」
「あぁ。」
真木が準備したのを確認し、なまえも読み出した。
「きょうすけ、これみつ、もみじ、よう……」
彼女が名前を読み上げる度、真木はそれをコンピューターに打ち込んでいく。
静かな部屋に、彼女の声とタイプ音だけが響いた。
だが百何十人か読み上げたところで彼女の声が止まる。
「…っ……」
「どうした。まだ残っているはずだが、漢字が読めないのか?」
最後までいき、残っているのは奇妙に折り畳まれた下部だけだ。
そこを広げれば、出てきたのは周りのものより少し大きな文字。
漢字二文字で書かれたそれは、ご丁寧に括弧までつけて“司郎”と書かれている。
「っ、しろう……」
「何だ。」
真木は振り返り、彼女を見てそう言った。
つまり名前を呼ばれて返事をしたのだ。
「…気付いてたの……?」
「何がだ。」
「私が名前で呼ぼうかどうか悩んでたことよ。」
「少しな。」
真木は目を伏せて微かに笑った。
「そんなに分かりやすかった?」
「…いや、俺も同じことで悩んでいただけだ。」
「嘘っ……」
まさか彼がそんなことを思っているなんて。
なまえは驚いて目を見開いた。
「お前がどういう経緯でそう思い、躊躇ったのかはよくわからんが…」
真木は説明し出す。
「…俺は、せっかく想いが通じ合ったのだから名前で呼んでもらいたいと、そう思う。」
そっと目を開き、真木の視線が彼女の視線をとらえる。
その表情はとても穏やかだった。
そんな彼になまえはいくらか安堵する。
「…私、真木ちゃんは名前で呼ばれるのが嫌なんだと思ってた。」
「どうしてそうなる…」
「だって、誰も名前で呼んでないじゃない。」
自分の心中も穏やかになり、なまえもまた同じように思っていたことを話し出した。
「それに、時々マッスルが司郎ちゃんって呼ぶと嫌そうな顔するでしょ?」
苦笑しながらそう言うと、真木は呆れたように小さく息をつく。
「あれは特別だろう。それに昔は少佐や紅葉も名前で呼んでいた。」
年をとるにつれて皆苗字で呼ぶようになっただけだ、とそのまま付け加えた。
不安と疑問が解消され、気分が良くなった気がする。
なまえは落ち着いたためにソファへ戻ろうと踵を返した。
だが真木に腕を捕まれそれを阻止される。
「…で、どうなんだ。」
「っ、何が…?」
「とぼけるな。名前の件だ。」
「…っ……」
さっきまであんなに呼びたいと思っていたのに、いざそう言われると緊張してしまう。
この資料を読み上げたときに呼んだのだからもういいのではないか。
なまえにそんな思いが芽生える。
「さっき、呼んだし…」
「つまりそれは、今後呼ぶつもりはないということなんだな。」
「違っ……!」
どうして彼はこうも意思を汲み取ってくれないのだろうか。
周りに気配りのできる彼ならば、そのくらい簡単にできるだろうに。
そんなに彼は私を苛めたいのだろうかと泣きそうになる。
「…すまない。お前のこととなると余裕がなくなる。」
「…っ、……ぇ……」
真木はなまえの腕を離し、彼女を自分の方へ向かせて静かに言った。
「我儘になるし、抑えが効かなくなる。」
「まぎ…」
「なまえには名前で呼んでほしい。以前からそう思っていた…」
そんなことを言われて、冷静でいられる人間がいるのだろうか。
なまえはデスクの上に持っていた資料を置いた。
そして椅子に座る真木の上に乗る。
「司郎……」
「っ、何だ。」
自分から言っておいて、照れたように返事をする彼が可愛らしい。
「司郎…、司郎……」
「だから何だ。」
「…呼んだだけよ。」
名前を呼ぶのがこんなにも気持ちのいいものだとは知らなかった。
それは相手が彼だからだろうか。
「ねぇ司郎。」
「だから何…」
「大好き。」
真木の言葉を途中で遮り、なまえは言った。
彼は一瞬驚いて目を見開いたが、すぐに微笑み自分の上に座る彼女を抱き締める。
「…パンドラ全員分の名前を打ち込んだ甲斐があった。」
「あらやっぱり偽物だったの?」
「当たり前だ。あんなもの必要なわけがないだろう。」
抱き締める力を強め、首元に顔を埋める。
お互い面倒くさい性格だと思った。
「…ねぇ、司郎は私の名前呼んでくれないの?」
拗ねたようにそう言えば、案の定真木は肩をピクリと跳ねさせた。
だけど、私も名前を呼んでほしい。
この思いは彼にも充分わかるだろう。
身を少しだけ捩らせ、甘えるように擦り寄る。
「なまえ…」
「何?」
「……愛している。」
小さな声で紡がれたその言葉は、なまえの耳を犯すのには充分だった。
END.
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