いつものように朝食を作るため早く起きる。
別に真木が当番というわけではないのだが、後のことを考えると自分で作った方が遥かにいい。
当番の者が料理を苦手とする場合、とても食べられそうにない料理を出され、ぐちゃぐちゃになったキッチンの片付けを任されるのだ。
「俺が甘やかすから上達しないんだがな…」
苦手でも、練習させなければ一生上達することはない。
どうやっても自分の手間が増えることは変わらないということがわかり、真木は眉を顰めた。
着替えを済ませ、少し重い足取りでキッチンへ向かう。
すると、ドアの隙間から明かりが漏れているのが見えた。
小さいが、何かカチャカチャという音も聞こえる。
誰かが何かを作っているのだろうか。
こんな時間に?と不審に思いながら、真木はそっとドアを開けた。
「あら、おはよう。早いのね。」
「……何をしている。」
キッチンにいたのはなまえだった。
しかし何故ここに彼女がいるのか、普段ならまだ眠っているはずだ。
何か眠れないようなことでもあったのだろうか。
心配するように顔を顰めて真木が見れば、なまえは小さく笑んで彼に答えた。
「朝ごはん作ってるのよ。たまには作ってみようと思ってね。」
「何が…」
「いいから。ほら、司郎は休んでて。」
真木の背中を軽く押し、なまえは強制的に彼をキッチンから追い出した。
そこにいることのできなくなった真木は、仕方なく隣にあるリビングのソファに座り、少し離れた位置から彼女を見守る。
普段自分が作ったものをなまえは嬉しそうに食べてくれるが、先に作ろうとしたということは何か不満があったと言うことなのだろうか。
彼女なら言いたいことを隠したりしないと思うが、普段しないことをされるとどこか不安になる。
確かなまえはそこまで料理が得意ではなかったはずだし、特に好きというわけでもないはずだ。
そんな彼女が料理をするなど、何か理由がなければおかしい。
しかし、そんな理由云々よりも、普段あまり調理器具を使わないなまえが怪我をしたりしないかどうかの方が真木には心配だった。
追い出された以上手を出すわけにはいかない。
何もできない真木は、どうなるのかと少しハラハラしながらなまえを見た。
何が原因でこうなったのかという不安も募っていく。
そのとき、彼女に異変が起きた。
「…痛っ……!」
「どうした!?」
反射的に駆け出し、真木はなまえの元へと行く。
「何でもないわ。ちょっと切っただけよ。」
そう言った彼女の手には包丁が握られている。
「…見せてみろ。」
「あ、ちょっと…!」
少し強引にそれを置かせ、手の怪我を見た。
右手には何もないが、左手には明らかに切ってしまったという傷がある。
決して深いわけではないが、この程度の怪我にしてみれば結構な出血量だった。
「どこが何でもないんだ。」
責めるような口調で言えば、なまえは困ったような顔をして誤魔化すように笑う。
その態度にますます苛々した。
「大したことないもの、ほら戻って。」
またもなまえは真木をキッチンから追い出そうとする。
怪我をしたにも関わらず、隠そうとしてどこかよそよそしい態度。
なぜ急に普段しないことをし出したのかというずっと抱いていた疑問と、それに対する不安も相俟って、真木のは少し冷静さを欠いた。
色々な感情が込み上げ、塞き止めるのが難しい。
なまえの手を見つめた真木は、その手をとって傷に舌を這わせ出した。
「…っ……」
突然のことに驚き、なまえは目を見開いて彼を見る。
傷を抉るような舌の動きに、自分の意思とは関係なく時々体がビクンと跳ねた。
「…し、ろ…っ……」
不思議な感覚に、立っているのがつらくなる。
なまえの状態を察した真木は、彼女の腰に腕を回した。
しかし舌を止めようとすることはない。
傷口に舌が触れる度、痛みが増す。
それに顔を歪めると、真木はようやく口を離した。
「……………」
腰に腕はまわしたまま、真木は黙ってなまえを見つめる。
「……司郎…?」
「…何だ。」
少し眉間に皺を寄せ、何事もなかったように真木は平然と答えた。
「何の、つもり…?」
答えられるわけがない。
自分でも、わからないのだから。
「…消毒だ。」
苦し紛れにそう言うと、案の定なまえは怪訝な顔をする。
彼女を傷つけた包丁と、しなくてもいい怪我をさせてしまった自分に腹が立った。
「…もういい、俺がやるから怪我人は休んでいろ。」
その方が心配もしなくていい。
好みの問題なら、注文通りに作ればいいだけだ。
思いの外冷たく言った真木になまえは驚いたが、それで流されては意味がないと彼女は言い返した。
「っ、何言ってるのよ!司郎は休んでてって言ったじゃない!」
そして前回同様真木を追い出すように背中を押す。
その行動に我慢できず、真木は自身の髪でなまえを拘束した。
「いい加減にしろ、何が目的だ。」
「司郎、痛い…!」
苦しがるなまえをじっと見て、彼は問い質そうとする。
「答えろ。」
あまりに声が低く、自分でも少し驚いた。
なまえも少し怯えたような顔をした。
違う、怖がらせたいわけではないのに。
「……、の……」
彼女の口から小さく言葉が紡がれた。
聞き取れず、真木は距離を詰める。
「…母の日、でしょ……?」
苦しそうにつまりながら、なまえはもう一度同じことを口にする。
だが真木は、予想外の単語が出てきたことに眉をひそめ拘束する力を緩めた。
「それとこれに何の関係がある。」
「…だって、毎日司郎には色々してもらってるから……」
そういう人に感謝する日でしょ?
なまえはそう言った。
「それで、何かやって喜ばせたかったと?」
真木が問えばなまえははにかみ小さく頷く。
その反応に溜め息をついた真木は、彼女の額を人差し指で小突いた。
「…そう思うならおとなしくしていろ。」
呆れたような口調だったが、その表情は柔らかい。
「慣れないことをされると、心配で余計に心が休まらない。」
「…わかったわ。」
彼の言葉になまえはシュンとする。
やっと理解したか。
これで少しは気も落ち着く、真木はそう思ってなまえに背を向ける。
だがそれもほんの一瞬だったようで、彼女はすぐに顔をあげ体を捩った。
「じゃあ、心配させないように努力するから放してちょうだい。」
「っ、お前は…!」
先程の流れをすべて無駄にする一言に、真木の頬がピクリと動く。
振り返ると、そこには反省の色などまったく見られないなまえがいた。
真木は盛大に溜め息をつくと、いくらか緩んでいた拘束の力を再び強めた。
「司郎!」
「おとなしくしていろと言ったはずだ。」
「そうだけど…」
それでも反論するなまえに、真木はもう一度溜め息をつく。
そしてさらに距離を詰めると、彼女をじっと見てから耳元で囁いた。
「そんなに料理がしたいなら、別の日に俺がいる傍でやってくれ。」
今日されると、お前の母親になったみたいでいい気がしない。
そう言ってなまえから離れた真木は、言い終えたあと難しい顔をしてまた背を向けてしまった。
おそらくなまえが作りかけていたものを作るのだろう。
彼の後ろ姿を見ながら、先程の言葉を思い出してなまえは僅かに顔を赤くする。
「それって、母親じゃなくて彼氏だってことをちゃんと認識しろってこと?」
「……言うな。」
なまえが問えば、吐き捨てたようにぶっきらぼうな返事が返ってきた。
だがその声に少し照れが混じっていたのが彼の態度でわかる。
彼なりの愛情表現なのだから、拘束された手足が少し痛いのも我慢しようとなまえは苦笑した。
そして真木もまた、自分が料理をした方が安心できるし、こうして誰かのために調理をするのなら存外悪い気分ではないと小さく笑った。
END.
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