大学に入学して、私の通学形態は電車へと変化した。今までは自転車で通える距離の高校だったのだけれど、大学は少し遠いのだ。一人暮らしをすることも考えた。でも、親に実家から通って少しでもお金を貯めろと言われそれもそうだなぁと素直に思ったので実家通い。
「本読む時間が増えたのは嬉しいけどね」
電車の中ではもっぱら本を読んで過ごした。たいがい座れるので―――早い時間の電車に乗るため―――快適に読書ライフが送れている。 ある日、私はふと読んでいた本から顔を上げた。別に足を蹴られたとかそういうことがあったわけではなく、ただ、ふっと、窓の外を見ようと思って顔を上げたのだ。そうして、見つけてしまった。
―――綺麗な、人……
その人は、綺麗な綺麗な人だった。何かの雑誌を読むために伏し目がちにされた瞳は長い睫に縁取られていて綺麗に影が落とされているし、長めの髪は私なんかよりよっぽど艶やかで美しく、肩のあたりでひとまとめにされてさらりと無造作に流されている。雑誌をめくる指も細くて長くて、それでも男の人のものだとわかるぐらいには節張っていて、長いすらっとした足は優雅に組まれていた。 そこだけ、何かの絵画から抜け出してきたかのように錯覚させられる。世界が違うような、そんな不思議な感じだ。 不意にその男性は顔を上げた。私が見ていたことに気付いたのだろう、不思議そうな表情で私を見ている。謝るのも変だし笑うのも変だし、恥ずかしくなった私は取り繕うように本に視線を落とした。けれど、物語が頭に入ってくることはなかった。
「ねー、ちょっと今日付き合わない?」
「何?どうかしたの?」
すすすっと寄ってきた友人に片眉を跳ね上げながら聞けば、非常に言いにくいのですが、と慇懃に前置きをしてから話し出す。いぶかしんでいるといるということは伝わったらしい。
「合コンのメンツがですね、一人足りなくて……」
「却下却下!!」
「いやいや、聞いてよ!ちょっと良いレストランなの!来てくれたらタダでいいから、私があんたの分まで払うから!!」
「気張って準備したんだね」
そうなのよ、と肩を落とす。どうやら相手は少し年上らしく、社会人もちらほら混ざっているのだとか。だからか、今回は少し良いレストランでセッティングしたらしい。だのに、どうしても一人足りないという。
「でも私そういうの興味ないし……」
嘘である。合コンはちょっと興味があった。あの男の人を見るまでは。
「だからぁ、もうおいしいご飯だけ食べに来てよー!!」
「……わかった、わかった行く。タダなんでしょ?堪能して良いんでしょ?」
「ありがとーっ!!助かる!!じゃあ今日、授業終わったら連絡して!」
はいはい、と言えばほんとにありがとと何度も言いながら去っていった。 あの綺麗な男の人を見てから、私は電車の中で顔を上げることができずにいた。私が乗ったときはまだ乗っていないようだったから、私より電車に乗るのが後だと言うことしか知らない。誰よりも早く扉の前に立って降りるから、その時点で電車から降りているのかどうかと言うこともわからない。というか、あの心臓が止まりそうな瞬間を体験してから、あの男の人を捜すのを意識的に避けていた。 だから、あんな綺麗な人を見た後だからか、合コンというものにとんと興味をそそられなくなっていた。 いやでもまぁ、良い機会かもしれない。どうせ叶いもしない一目惚れなのだから、タダでおいしい食事にありつけるこの機会に私の中のハードルを通常レベルまで引き下げるべきだろう。 そう思って参加した合コンは、面食いが幹事のせいか結構綺麗系が集められていた。だが女の扱いに慣れていそうなのも多かったので自然と食事に集中する。
「あんたよく食べるわね」
「食べに来てるからね」
「タダ飯はさぞ旨いでしょうよ……」
「私のおかげでおじゃんにならなかったんだからそんな顔しないでいただけます?」
「そりゃ感謝してますけどね。猫の皮ぐらいはかぶっといてよ」
「はいはい、りょーかい」
聞かれたことには笑顔で答える。それぐらいはできる。伊達に接客業(アルバイトだが)で鍛えられているわけではない。
「よく食べるねー」
「美味しいですから。それに残すの嫌いなんです」
「あー、俺、そういう子好きだわ。女の子ってあんま食べないけどさ、細すぎる子多いよね。みんなもうちょっと太った方がいいと思うなー」
あら意外に好感触。メインの付け合わせの野菜(ドレッシングおいしい……)を口に運びつつ目の前に座りなおした男の人を見れば、にっこりと微笑まれた。
「だったら、言った方がいいと思いますよ。みんな貴方みたいに思ってないから、女の子は痩せようとするんです。太ってる太ってるって言うデリカシーのない人が多いから」
「そうかな」
「胸が大きいことと太ってることを同義にするような人多いでしょう?」
「……確かにそうかもね」
私は別に大きくないけど、と付け加えようとしてやめた。なんとなく、考え方は嫌いじゃないけれど絡みつくような視線は嫌いだ。
「ちょっとお手洗い行ってくる」
幹事に告げて席を立つ。そそくさとお手洗いに向かって、鏡を見る。疲れたな、と思った。別に用を足したかったわけではないのでそのままちょっとだけ化粧を直してお手洗いを出る―――と、視界の端がキラキラした。
「あっ!」
そこにいたのは、あの綺麗な男の人だった。プライベートルームと書かれた扉から今まさに出てこようとしているところで、私の声に顔を上げる。
「す、すいません、なんでもないです」
「……朝、電車で一緒になるよな」
「え……」
「いっつも本読んでるだろ?」
「そ、そうです、けど……」
まさか顔を覚えられていただなんて、となんだか居たたまれなくなってもじもじと俯く。
「え、ええと、ここで働かれてるんですか?」
「まぁな。キッチンで働いてる」
「え!お料理すごく美味しかったです!」
「そりゃよかった」
かすかに微笑まれて心臓が飛び上がる。ハードルを通常レベルに引き下げようと思ってきたはずだったのに、とんだ誤算だ。
「で、あんたは……」
「あ、葵井琴羽です」
「葵井さんはどうしてここに?」
「あー……合コンの数合わせでタダ飯を食らいに……」
素直に打ち明けるとくっくと笑われて、恥ずかしい。 ぴろぴろと携帯に元から入っていた曲が流れ、恥ずかしさを紛らわせるようにメールだと呟きながら画面をのぞき込む。そうして、ついと眉を寄せてしまった。
「どうした?」
「あ、いえ、なんか二次会に移動になるみたいで、本当は行きたくないんですけど……」
「じゃあ、帰ればいい」
「へ?」
「方面同じだろ?送ってく」
「え……」
嘘だ、と言いたかった。まさかこんな綺麗な人が、と。
「逃げたいなら俺を知り合いとでも言えばいいし」
「え……」
「帰りたいんだろ?知り合いにあったから返るって言やあ、抜けやすくないか?」
「い、いいんですかね、あの、助かるんですけど……」
どーぞと返され私は一も二もなくその案に乗らせていただくことにした。出たところで待っていると言ってくださった神田さん(神田ユウさんというらし)に頭を下げ、テーブルに戻って先ほど神田さんに言われた言葉をそのまま告げる。すると全員が全員二次会に参加する訳じゃないのか案外すんなりと帰ることができた。さっき私の目の前に座ってきた人はじゃあ俺も帰ろうかなとか言っていたが、知り合いと一緒に帰ると言っていたからかそれ以上何も言われることはなかった。
「お、おま……お待たせしました?」
「何で疑問系なんだ」
「いえあの、なんとなく……」
喉を鳴らすようにして笑う神田さん。格好良い。
「実は俺」
「はい?」
駅のホーム、人もまばらな中ベンチに座りつつ神田さんは言う。
「ずっと気になってた」
「はぁ、何がですか?」
「葵井さんが」
「……は!?」
ずっと楽しそうに本を読んでいて、たまに口元が緩むのを一生懸命こらえようとしたり口元を押さえたりする姿が面白くて、結構ずっと見てた。 そんな神田さんの言葉に私の羞恥は絶好調に達し、両の手を遊ばせながらあーとかうーとか訳の分からないうめき声を発する。
「目があった日、本当は話しかけようかと思ったんだが、まぁ無理だった。そしたら店にいて……なんかちょっと、」
運命みたいだ、と恥ずかしそうに言う神田さん。なんだろう、その言葉、私も言いたい。
「とりあえず、メアドとか交換しませんか?」
悪戯っぽい笑みを浮かべながら尋ねられて、私は頭がもげそうなほど勢いよく首を縦に振った。
次の日から神田さんは電車に乗ると私の隣に座るようになって、そのせいで朝の通学がとても待ち遠しいものに感じるようになったのは―――まぁなんというか当然のことだと思うんだ。
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