それは初めての経験
クラルは、ココが凄く大切だ。彼と要ると楽しくて幸せで、その時間だけでなく日常そのものが満ち足りて景色が色鮮やかになる。
それは初めての経験だった。
友人の様ではあったけれどある時から憧れて、想いを寄せてしまった高嶺の男性にまさか好きだと言われてそれが、今もずっと続いている。
好きはいつしか大好きに変わって愛しているに変わって、名前も『クラルちゃん』から、彼が心を許している友人達と同じ様に『クラル』と呼び捨てされるのが当たり前になった。(クラルは相変わらず敬称を付けたままだけどこれは心を許していないと言うよりココへの信頼と尊敬が強過ぎるから)
楽しい時には一緒に笑い、悲しみには寄り添い合い、美味しいものは分かちあって、喧嘩をしてしまっても一緒に居るのに意地を張って別々でいるのがお互いに寂しくなるから直ぐ謝りあって仲直りしてしまう。そうしたらもっと、クラルはココに恋をしてしまう。もう私は、ココさんしか愛したくない。と、甘い痛みと共に胸に刻む。
『僕のクラル』
――そう、囁かれる事に恥じらいではなく甘い陶酔を感じ始めたのは何時からかしら。クラルはそっと目を細める。
私は彼のもので、彼は、私の。その矛盾のない繋がりは凄く、居心地が良い。
『……もし家庭を持てるなら私は、貴方とが良いです』
いつかにクラルは、そう不意打ちでココに囁いた。それはココの顔を珍しく紅潮させた言葉。そして、
『……僕も、君が良い。君じゃなきゃ、嫌だ』
体を交わらせて滑り込んだシーツはひんやりと冷たかったのに、その時には二人額に汗を滲ませて、シーツは色が変わってしまうほど熱を発して体はぴったりと、野暮な隙間さえ無かった。
気を飛ばして汗ばむ心地良さやキスで与えられる甘い痺れの官能は、ココとでしか知り得ない。
クラルはココの腕に入る度、体を流れる音やココの肌の匂いに触れる度に、強く思う。
――私は、この人がいちばん大切。いちばん、愛している。
逞しく発達した男性的な肉体、肌から立ち昇る香ばしくスパイシーなでも甘い香り、熱を持つ大きな掌、情欲をくらくらと宿して愛しそうに細められる、黒い瞳。指通りの良い黒檀色の髪。完璧なアクセントで優しく囁かれる低い声は柔らかく、時にクラルを切望する。
『……愛してる。僕の、』
「クラル?」
はっ、とした。
マリアに視線を移す過程でクラルは浮き上がった記憶を箱へ押し込む。今は、違う。今は、違うわ。あの日でもない。
今、クラルが一緒に居るのはココじゃない。まして二人の肌の匂いが染み込んだココの寝台じゃない。クラルが今居るのは出発を控えた客馬の客室、その心地良い風が吹くバルコニーで、一緒に居るのは常に体を寄せ合わせる恋人でなく、幼少から一緒に居る友人。
「…なんですか?」
クラルは咄嗟に取り澄ました声を出した。
視界がいつかの記憶から今に戻ってきたけれど、意識しないと白昼夢の名残で声が掠れてしまいそうだった。
はしたないわ。駄目。駄目よ。クラル。
懸命に自分自身を嗜める。
「今、ココの事考えてたでしょ」
マリアの鋭い指摘に一瞬心臓が跳ね上がった。
「、え?」
クラルはマリアを注視した。マリアは腰に手を当てて、クラルを見ている。柔らかいスカートの裾が横から吹く風にゆっくりと揺れる。
「………どう、して?」
きちんと聞き返すとマリアは、まああきれた。とばかりの態度で肩を竦めてにやりと笑う。
「あんた、すっごくエロい顔してたもの」
「え、ろ、って、なにそれ!」
「とろーんと熱っぽい顔よ。遠くを見ちゃって。ほーんと。何想像してたんだか」
クラルは、何も言い返せなかった。咄嗟に火照った頬を片手で突っぱねる。視線をやや下に落とし唇を噛み締める。
それが逆にマリアには肯定のサインとして映った。そんな、とか。別に…。とクラルは呟くけれど風に掻き消されてマリアには届かない。小さく動かす口しか見えない。
「……何考えていたかはともかく…ココに関しては否定しないのね…」
横殴りの風がクラルの髪やジャケットの裾をはためかせてもその声はきちんと聞こえた。クラルはいよいよ何も言えなくなってただ気不味さだけを胸の内に転がしたまま、きゅう。と、唇を結んだ。頬が火照っている。
「もう。すっかりココに骨抜きにされちゃって」
「骨抜きになんて…」
「いいのよ。恋は理性も情も信仰心も。全部を麻痺させちゃう強力な麻薬だもの」
「……それ、誰の言葉?」
「さあ。詩人か牧師辺りが言ってるんじゃないかしら」
「つまり、誰のでもないって事ね」
「少なくとも今、私の言葉にはなったわ」
口の減らない親友の応酬にクラルは肩を落として少し笑う。
「それは、確かに真実だわ」
横でマリアもふふっと笑う。
大切。と、言えばそれはマリアも、ベクトルは異なるが同じだ。
マリアとは小さい頃から一緒に居て同じ学舎で学んで同じ部屋で過ごして、喧嘩もしたけれどその度に和解して身の上では同級生から庇ってもくれた。今のクラルが自分のルーツだとか生い立ち、環境の一切を気にせずいられるのはマリアの影響が強い。
それはココにとってサニー達の様な、そんな気兼ねのない関係に当たるかもしれない。皮肉混じりの会話も機知への応酬も、相手の知識を考える必要なく思いのままに口を動かせる。
一昼夜を共にするならずっとリラックスした格好でだらだらとお喋りに興じる。それは、ココと過ごす1日とはまた違った刺激や心地好さがあってクラルの胸を気持ち良くする。
だからクラルは迷ってしまう。ココか、マリアかと迫られたら……比べる所が違い過ぎて迷う。
混乱は徐々に理不尽な思いへと繋がった。第一マリアがサニーさんときちんと仲直りしていたらこんな事にはならなかったしマリアも、らしくない事を口にしなかったんじゃないかしら。と、クラルは思ってしまった。
そもそも喧嘩。と言っても今回はどちらが悪いとか言う物ではない。
クラルはマリアから聞いた内容しか知らない。だからクラルが知っているのはマリアの怒り所だけだけれどそれから分析して悪い悪くないで計ろうとしてもそれは無理な話だった。
それどころか粗筋を聞いた限りではマリアの言い分がまかり通る類いのもの。
だから今回ばかりはクラルも、そしてココもただ聞き役に回り、行く末は当事者達に委ねるしかなかった。