凡そ数時間前
凡そ数時間前。クラルはガラス窓に手をついて、眼下を犇めく人塵に巨大な影を落とすそれをじっくりと観察した。
太陽の光を反射して鈍く光る銀色のレールからしてもう、中層ビルの高さは有る。その奥には更に大きくて頑丈なピンクのスキー板が覗き、それが付けられたボディは希代の豪華客船、クイーンエリザベス二号さながらの形ながらもそれを凌ぐ規模と階数、そして絢爛さを誇っている。船体から伸びる綱も重量感があり、立派だ。部屋は高い位置にあるのに、それでも尚見上げなくてはいけない。
けれどクラルはそれよりも、その先頭に構える存在に目を向けた。
綱、と言うか手綱の先で鼻を鳴らす、客船を引く二頭の逞しい白馬。
多くの猛獣と人間とが共存するこのグルメ時代で各国を繋ぐ巨大線路、ワールドコネクトを行く旅路から乗客を守るのは船体に備えられた設備でも、クルー達が実は手練の美食屋や再生屋の集団でした。と言うものでもまして、クラルがよく知る街の様に壁に毒液を塗り固めている訳ではなかった。
時折嘶く、黄金色のたてがみを持った神々しい迄の大馬達。
この二頭の雄々しい馬達が持つ捕獲レベルが人間達が普通に生活出来る世界内では最強クラスである為に、その身で巨大船体を引くと同時に人々の安全を保証してくれる。囚人達の墓場と言われるハニープリズン前を抜ける順路であったとしても、彼等が牽引する限り滞り無く進む。
猛獣は、自分より格上の暴力を持つ存在には手を出さない。
だから、攻撃レベルが高ければ高い程、襲いかかる猛獣は居ないと言う時代ならではの叡知を使用した防衛方法だった。
クラルは窓硝子に額を付けた。それで、距離が近くなる訳では無いけれど、先程よりも良く、嘶きに頭を振る彼等を見つめる。
ぽつんと、呟く。
「…ギガ、ホース……」
大馬の名前を乗せる声は恍惚として溜め息が混じっていた。
たっぷりとした金色の、美しい鬣と尾。無駄な所が何一つ無いフォルム。強靭な体躯。その姿は正に世界随一の優美さを持つ、豪華客馬の先導に相応しい。とクラルは思った。うっとりと、また、息を零す。
「素敵……」
IGO研究員と言う他に、人々の生活の安全保持に関わる猛獣達の調教を主とした"猛獣調教師"としての肩書きを持っている以上、『豪華客馬』を引くギガホースは憧れだ。いつかあのランクの猛獣調教技術に携わりたい。なんて野心が燃える。
手に持っていたデジカメを起動させた。ズームを使って撮影。丁度二頭の顔の位置が交差して、初めて二頭撮りに成功した。思わず顔が華やぐ。
色々頭を抱えたりしたけれど、本当はずっと図鑑でしたお目にかかれなかった巨大馬を見れて、クラルは嬉しかったりする。
「はーい。もう良いでしょ?行くわよほら」
「いたっ」
幸福感に浮ついていたら、後ろからバインダーで軽く頭を叩かれた。反射的に声が漏れる。いたい。
「マリアー……」
振り返れば腕を組んだマリアが、少し眉を吊り上げてクラルの後ろにいた。ついつい、名前を呼ぶ声が恨みがましくなる。
「何よ」
「痛いわ」
頭を擦りつつ口を尖らせれば鼻を鳴らされる。
「何時迄も馬に見惚れてるあんたが悪いのよ。搭乗だってアナウンス掛かってるでしょ」
そう言えば。先程からやたらと渋くていい声が何か言っていた。ギガホースに気を取られ過ぎていて、良く聞いていなかったけれど。
クラルは天井を見上げた。豪華な作りの室内の天井も当然の様に贅を尽くされている。そこに、アナウンスを流していると思しき円形のスピーカーが嵌め込まれていた。
今は丁度断線中なのか、物音一つ聞こえない。少し前は室内に流れ出したそれのお陰で色々あったのに。
「ねえ……マリア、」
「ほらクラル。行くわよ。迎えも来ているんだから」
マリアが親指で差した方向を見ると、フロアに到着して直ぐ部屋迄案内をしてくれた(そしてウェルカムドリンクを置いてくれた)その時のボーイと同じ男性が扉前に立っていた。先程と同じ洗礼されたダークブラウンの制服を身に着けている、少し年の行った紳士然とした男が。
彼はクラルと目が合った瞬間に微笑み、恭しく向一礼する。つい、それにつられて会釈する。
その時にふと、クラルの目に廊下側にある、ある物が映った。エアポートで良く見る、大きな銀色のカート。壁に阻まれて総てが見える訳じゃないけれど、僅かに除く所からは見慣れたトランクの色が見えている。クラルは思った。もしかしてこの方って……。
「ほら。クラル」
「あ、はい」
本当は。クラルはマリアとの間に有った少し前の色々に付いて改めて追及したかったけれど。クラルを急かして先に部屋を出て行ったマリアの後を追うのが最優先になった。
ソファに置いていたショルダーバックを袈裟掛けに潜らせ、そのサイドに付いている深いポケットにはデジカメを、直ぐ取り出せそうな浅いポケットにはテーブルに置いていたモバイルをさっといれる。脇にバインダーを挟む。
「マリア待って」
廊下を少し進んだ所でマリアはクラルの声に振り返った。
ドアは搭乗口迄案内、そしてトランクを部屋迄運んでくれるボーイが押さえている。彼はその後、自分達の身の回りの世話をしてくれるバトラーになる。
最もそれ知っているのは今、マリアだけだけど。
「マリア、」
敷居を潜ったと同時に見つけた自分を安堵の笑顔とともに呼んだ親友を、マリアは最近いつも、こう思う。
相変わらずこの子、学生の頃と変わらないわ。
出て直ぐ真横の壁に寄せてある、二人のトランクの乗ったカートに気付いて一瞬目を見張ったクラル。
二人の為にドアを押さえていたボーイがカートの押し手部分を握ったのを見て、きちんと彼に向き合い頭を下げるクラル。笑顔で、礼を言う。
何がそんなに珍しくて、どうしてそんなに畏まる必要があるのかしら。この状況が、産まれた時からずっと身の回りに有ったマリアは首を傾げる。
マイペース、とはちょっと違うのかもしれないが、何十年もマリアと一緒に居ながらでも絶対にマリアの生活水準や周囲に染まらずに居るクラルは……やっぱりマイペース。なのかもしれない。じゃなきゃ口調だって、幾ら一番使いやすいと言っていても、いい加減マリアにはカジュアルに話してくれても良いはず。
でも別に、そこを不思議には思えど、意味分かんないわ。と、主観のみで生まれる排他的な態度を取らないのも、彼女は学校側が勝手に決めたルームメートだと割り切って縁を切らないのも結局、そんなクラルがマリアは気に入っているからだと思う。
だって自分に染まらない。は、言い換えれば自分に媚を売らないと言う事。媚を売っているわけでも無いのに親しい間柄だと言う事はマリアに何が起こっても、クラルは変わらずに接してくれると言う事。
永遠の友情。気取らない関係。そのどちらもドラマか、コミックの中でしか存在しない夢物語だと思っていたそれが現実に有ると言う事は、とても有難く、尊い。
だから今。
マリアはちょっと、胸が痛む。
バインダーを小脇に早足で駆け寄って来る親友に、ほんの少しの罪悪感を感じる。
「ごめんなさい」
「いいえ、」
クラルが持つショルダーバッグのサイドポケットから覗いているモバイルが不意に、上部のライトを時折グリーンに点滅させれば尚更。マリアは居たたまれなくなる。
それは今、着信を受けた訳でも、未読メールがあるわけでもないと分かるからこそ産まれる、申し訳無さ。
数十分前。
クラルのモバイルにはココからの着信が入った。きっと、何処へ行く事になったのか尋ねる為だとマリアも、そしてクラルも直感で悟った。
でも焦りを感じたのはマリアだけ。
やましい所も気後れの感情も持つ必要の無いクラルは嬉しそうに顔を綻ばせて、恋人からの着信を受けようとした。けど……。
スピーカーから、マリア達が利用するクラスキャビンの搭乗予定時刻を告げるアナウンスがかかった時、マリアは咄嗟に言ってしまった。
『待って!出ないで!』
もう一度、グリーンが点灯して、消える。
クラルのモバイルが受けた着信は計二回。数は兎も角、その存在を主張するそれは、まだ自分の感情が状況を整理出来ていないからと言う理由で受け取りを拒ませたマリアを責めている様に見えた。
「マリア…?」
クラルが不思議そうに首をかしげる。
「どうしたの?」
「…別に」
だから。ごめんなさい。と、言うのならそれは間違いなく自分だと思っているのに、さっきから口をつくのは虚栄を誘う言葉ばかりだった。
「何でもないわ。そんなに急がなくてもって思っただけよ。案内の人だって後ろに居るんだから」
顎で彼を差す。カートを押しながら近付いて来る、後にバトラーとなる男が苦笑する。振り返って彼を確認したクラルも何故か苦笑している。
ああ、もう!
マリアの中に、自覚しているのに中々改められない自分の情けなさに対する苛立が産まれた。つい、鼻を鳴らして腕を組んでしまう。
――私ったらどうしてこういつもこう、一言多くなっちゃうのかしら。
顔を反らす一瞬、クラルと目が合った。
貴女は相変わらずね。
改めないと。と、思う。だってこの性格のお陰で今、マリアは恋人との喧嘩を継続させている。それにまた、クラルを巻き込んでいる。なのに困った様にでもマリアに向かい微笑むその顔にそう言われた気になれば、これでも良いのかもしれないと、マリアは思ってしまう。
そうよ。クラルは認めてくれている。だから、
――私の気持ちを理解してくれない、サニーが悪いんだわ。