明日
明日。
昨日、恋人と交わした約束が、その当日の朝からココ、そしてサニーの思考の大部分を占めていた。
さすがにトリコや小松と朝食から顔を合わせ、その後彼らの部屋で小松の新しい包丁を見せてもらっている時迄は考えなかったけれど、ふとして今後の事を思えば、心持ちが浮き足立った。
特に、食事時。
トリコや小松主権の会話が進めば楽しさに笑い声を上げたが、自然と訪れる聞きの時間は、相槌を打つその裏側で考えてしまった。この後、迎えに行ってモバイルを探しそれからランチをして、デートをして、ディナーは彼女達の提案があってもしかしたら4人で摂るかもしれない可能性がココには視えたけれどそこは後々、会ってから確認すれば良い。とりわけココは、昨夜の出来事を鑑みる度にその更に後の期待を持った。
クラルを部屋に連れて行ったら……先にシャワーを浴びよう。翌日の朝はきっとクラルが眠たさに微睡むから朝食は、遅めのルームサービスを頼もう。客馬内は基本オールインクルーシブだ。それなりの場所は予約優先になるけれど、食事に関して融通がきくのも、この旅の魅力のひとつ。
やがてコップに注がれた水を煽り、トリコ達の提案で彼らの部屋へと向かう途中には、昨夜のクラルとの別れ際に思いを馳せた。夜は対面したサニー達に一通り毒付いてから(「もう、僕達を巻き込むな。と、言ったよな」「や、つーかクラルが立ち聞きなんてつくしくねー事してんのが、」「クラルが?何だ?」「ぐ、」「まあ、そちらは、その通りでもありますし……」「君は悪くない。そもそもあんな話がでると想像すら出来なかった筈だからね……」「ココさん、」「てゆーかそんな事あったなら何で直ぐ教えてくれなかったの!?しかもそんな怪我迄して!」「マリア、……その、色々と混乱してしまって。あと、捻挫はこの件とは本当に、全く別物ですから……」)時間も遅いからと退室に腰を浮かせざる得なかったあの口惜しさ。足に響くだろう。その場で良いよ。そう、ソファに座っていたクラルの頬を撫でつつ伝えた指先の名残惜しさ。
それでもクラルは、いいえ。平気ですから。そう微笑んでココの手を握り、玄関口まで付いてきて見送ってくれた。別れ際に、また明日……迎えにくるよ。と腰を屈め、キスをしたその唇は愛らしくて、それでは……こちらを。とココの掌にそっとルームキーを握らせてくれたその心が愛しかった。
勿論、思い出しつつもココはきちんと、トリコ達の会話にも耳を傾けた。
小松の包丁の精巧さに抱いた感動も、憧れの職人に特別な一振りを拵えて貰えた喜びにはしゃぐ小松の無邪気さに心を温めた感情も本物だ。上の空にはしない。だから、ずっとトリコに対して持っていた疑問を尋ねたりもした。
「この馬車に乗ったお前の、本当の目的は何だ?」
トリコはココ達と違って乗船期間は長くない。出港前に聞いた目的地はほんの1日で辿り着く場所で、わざわざグルメ馬車でなくても、トリコであれば難無く行ける。
であれば、何かしらの目的があっておかしくない。
「んん、」
神妙な面持ちでトリコが何かを話しかけたタイミングで、部屋に備え付けられたスピーカーが作動した。もう間も無く、黄泉への門へと着くという。
「準備しろ小松!降りるぞ!」
「ええー!」
滔々と停車場所の説明を続けるアナウンスをBGMにトリコは大慌てで小松に身支度を促した。どたばた慌ただしくしながらも、小松に降車の目的を話すトリコを前に、ココは肩を落とした。この食いしん坊ちゃんは全く、相変わらずだ。この調子だと目的は聞けずじまいかもしれない。
半ば諦めかけたその時、トリコが振り返りココの名前を叫んだ。そして、ココやサニーにお願いがある。そう、言うやいなやと彼は直ぐにその野生的に整った顔を申し訳なさそうに見えて人懐こく、くしゃけさせて、続けた。四天王のよしみだ、
「ゼブラ迎えに行くの、手伝ってくんね?」
「断る」
「断る」
ココとサニーは珍しく同じタイミングで、トリコの申し出を棄却した。
「即答かよ!!」
部屋にトリコの絶望が谺する。中々に声が通る男の驚愕に、サニーは盛大に顔をしかめた。
「っちにだって都合があんだし。んな急な誘い、受けれるかっつーの」
「んだよー。ちゃちゃっと済ませて、お前らだったらちゃちゃっと馬車に追いつけるだろー」
「うっせ、ロイロあんだし」
ココは早々にトリコの射程内から外れる事にした。目を白黒させて驚いたままの小松の傍に近づく。
「ほら、小松くん。準備を急いだ方が良いよ。黄泉への門の停泊時間は5分と、短いからね」
「は、はあ……」
「ココぉ!つか今朝お前俺の電話無視しただろ!付き合えよー!」
「それはそれ、これはこれ。2人とも今更付き添いが欲しい年でもないだろ。見送りくらいはしてやるから。頑張れ」
愚図るトリコに変わり、ココは手早く彼の荷物を笑顔で取って押し付けるように渡した。
トリコ達がそこで降りる事を考えたら、もう降車口へと向かっていなければ間に合わない。
ぼうっ。汽笛が鳴り、ギガホースが嘶く。停車の時間を迎えた客馬は再び動き出す。曇天と荒涼とした岩場に相応しい生ぬるい風が、ココとサニーの髪や頬をかすめ始める。
トリコは降りても尚、最後迄、ひでぇ!とか、この薄情もんどもーっ!と喚いていたが、ココとサニーはぷんすこ不満を叫ぶトリコをデッキから見送り、やがて目配せをして肩を竦ませ合い、笑った。
「薄情者だとさ」
ココは笑みを深くし更に、喉を鳴らした。
トリコ達の姿は徐々に遠くなるが、ココには未だに拳を上げて喚く彼と、その横で行く先を案じて顔色悪く引きつり笑う小松の姿が見える。可哀想に。トリコに振り回されてよく、身が持っている。まあ、死相は視えないから大丈夫だろう。
「はっ、たらまえが付いていってやれば良かったんじゃネ?ゼブラの奴も喜ぶし」
「あいつが?冗談だろ」
トリコ達から背を向けて、柵に凭れる。きちんと溶接された背の高いそれは2mに100kgと言うココが寄りかかっても、びくりともしない。
「せいぜい、怒鳴られて終わりさ。それに後はお前と一緒だ」
「あ?」
「僕にだって色々ある。なにより、情をかける相手はあいにくと決まってる」
そのまま、腕時計から時間を確認する。サニーが横で、気障ったらし。と呟いたが聞かない振りで袖を引く。
ゴツゴツとした自動薇の文字盤は10時丁度を示していた。ランチタイムには少し早いがそんな事、ココには関係ない。時間はつぶせるし、それなら可愛い恋人と一緒が良い。その時間で今後の相談をしたい。
そこはサニーも同意見なのだろう。バツの悪そうな顔で、そっぽを向いているが口元は微かにニヤついている。
ココはくすりと笑んだ。
「僕はちょっとある場所へ寄ってから向うが……お前、どうする?先に行ってるか?」
「は?」
予想外の提案にサニーは素っ頓狂な声を上げた。
昨日の今日だ。てっきりさっさとクラルに会いに行くと思って居たのに、寄り道なんてらしくない。クラルが落としてしまったと言うモバイルでさえ、見つけてくるでなく一緒に探すと言っていた程、側にいたがったのに。
「どこ行くんだし」
だからその疑問符も付かない問いはサニーからしたら当然だった。
「ん?」
それにココは片眉を上げ、なんでもない事のように答える。
「薬局」
その時、ココがサニーに見せた笑顔は彼が知るココの表情の中で一番嬉しそうで、きらきらしていた。
サニーは心ならずげんなりした。薬局と言う単語だけでココが何を買い求めているのか分かってしまうのは、自分もちょっと同じ事を思っていたからでココのせいでそれが言いにくくなったからだ。
同時刻、クラルとマリアは自室のテラスから過ぎる黄泉への門を眺めていた。
鍾乳洞をひっくり返して扉を付けたような刺々しい門扉は、段々と小さくなって行くとは言え客馬より大きな存在は中々、視界から消えない。
「それで、あちらの奥にいる獰猛な猛獣達は総てたった、お一人の女性によって統率されているの」
その超然と佇む奥を見つめ、クラルは目を輝かせていた。
テラスに溶接された柵に両手を置いて、いつものようにすっきりと立つその身体はスリーブの無いドレープワンピースに包まれ、ざっくりと纏められた髪から溢れる後れ毛が牽引の風に揺れている。
「ふーん」
マリアは緩いカーブを描くその首筋を注意深く注視していた目線を、苦心の末に逸らした。いつ言おうかしら。
柵に凭れてクラルに倣い、前方を眺める。彼女には黄泉への門に対する興味は薄い。風で顔にかかる横髪を耳にかけつつ、マキシ丈のリゾートワンピースの裾を遊ばせる。
「しかも、私達と違って、特別な道具は何一つお使いでないのですって。とてもミステリアスな方らしくて詳しくは非公開にされているのだけれど、」
その横でクラルは饒舌に、口を動かす。私達と言うのはマリアを指してでは無く、彼女の職場の人を指し示してだろう。猛獣調教師である彼女にとって、IGO第一ビオトープでも取り扱いの出来ない猛獣を扱う”ハニープリズン”は実は一度見学をしてみたい所だ。
スピーカーが到着を告げるなり自室から、身支度もそこそこに現れたクラルをマリアは思い返す。後れ毛をピンで固定するのもそこそこに、ちょっとテラスへ行きますね。そう言った頬は紅潮していた。
お陰でマリアは言いそびれている。あんた、今日はヘアスタイル……アップにしない方がいいわよ。
「確かにさっきアナウンスで、刑務所がどうの言ってたわよね……」
タイミングって大事だわ。思えどもクラルはどこ吹く風で、口を動かし続ける。
「ただの刑務所ではありません。私の所属研究室のボスから、技術提供だって過去に行われました。現代において、最先端、脱獄不可能なまさしく、要塞です」
「え……遺伝子工学から?技術を?」
「はい」
どこか誇らし気に頷く親友を前に、マリアはぞっと背を粟立たせた。
クラルは、猛獣調教師という肩書きの他にもう一つ、遺伝子工学研究室職員という職名も持っている。それは、元来総ての生物が保有していく遺伝子の塩基配列に手を加え、強化させたり逆に弱体化させたり、あるいは掛け合わせて新種を作り出したりする分野だ。
情報規制の関係で親友がそこで何のチームに所属しているのか、何をしているのかは分からないが、刑務所と関わっていると聞くとあまりにぞっとしない。もちろん遺伝子工学と一括りにしてもその研究テーマは多岐に渡る。全く関わっていない可能性の方が高い気もするが、情報を制限されているせいでそもそもその研究室がどの位の規模なのか分からないマリアには、無知故の恐怖しかない。
「……この話、もう止めましょ」
「えっ……」
あからさまに肩を落とすクラルを見ると、ちょっと心がぎゅっとはなるが、それはそれ。これはこれ。
「まだ、お話ししたい事、たくさんあるのに」
「じゃあ後はココに話なさい。その方が大人しく聞いてくれるし、もっと深い話だってできるでしょ」
それに、クラルは更に肩を落とし胸の前で掌を合わせた。
「ココさんとは、深くなりすぎて……」
いじいじいじ。両手の指の腹を擦り付けて何故か、恥ずかしそうに微笑う。
「だってマリア、凄いのよ。ココさんね、お詳しいのは薬学や毒性学、あって猛獣生態学の一部分だと思っていたのに生物学全般に秀でていらっしゃるの。ですから、私の研究にたいしても見識が深くて……。物理学も。それなのに、全くの理系かといえばそうじゃ無いの。文学もお好きで、ほら昔良く、会話にトールキンやシェイクスピアの一説を混ぜる遊び、したでしょう?その癖でついお話してしまった時も彼は直ぐに気付いて下さって……」
クラルは、心を浮つかせながら話し続けた。ほんのりと染まる頬や目尻には、背後に見える剥き出しの岩盤と淀んだ空の景色さえ色彩が豊かになりそうな程の色気が浮かぶ。
マリアは、肩を竦ませた。
「あんたって」
「はい」
「ココが絡むと……すっごくめんどくさくなるわよね」
「めっ、」
ひくん。
肩を跳ね上げて、途端口籠るクラルの頬が次第に羞恥で染まって行くのを眼前にマリアは、ため息ひとつ零した。
私、めんどくさい……。あ、でも、確かにその通り、なのかしら……。と口にしなくても伝わる表情を覗かせているクラルを改めて眺める。ドレープ襟のミモレ丈ワンピースに、足を考慮したバレエシューズ。長い髪をアップにしたヘアスタイルのお陰で、首筋がよく見えている。マリアは、
「……いいんじゃない?だって恋は、理性も情も信仰心も。全部を麻痺させちゃう強力な麻薬なんだもの。愛しちゃってるなら、」
−−それはもう中毒よ。
言いかけた言葉を噤んだ口にしまう。
「……マリア?」
「なおさら、麻痺しちゃうでしょ」
代わりに、取り繕った。
腕を組んで胸を張り、少し怪訝そうにマリアを伺ったクラルに向かって笑ってみせる。
ココとクラルに対してはこの揶揄いが、冗談には聞こえ難い事くらいマリアは心得ている。
「じゃなきゃあんたが、首の後ろにキスマーク付けて帰ってくるなんてあり得ないもの」
そして、タイミングの掴み方も。
「付いてるの!?」
「ええ。左側にね。ココ来る前に鏡確認してきなさいよ。あーやあっと言えた」
たださっき思った事が本当に揶揄いで済む事なのか、マリアには判別が出来ない。
「ちょっと、失礼します」
「どうぞー」
それでも顔を真っ赤にして左手で首元を抑えたクラルが「そんな、ココさん……あのときだわ」去り際に発した戸惑いの呟きに色っぽさが増しているのは間違いなく、あの毒男のせいだとは断言出来た。
人間、性格を変える幾つかの条件の中に、"付き合う人を変える"と言うのがあるが、あながち間違いでなさそうだ。だって、こんなたったひとりの事に一喜一憂するクラル、学生時代じゃあり得なかった。−−それでも……。マリアは、ふと思ってその場で吐息をこぼして笑う。
−−それでもあれが、私の知ってる今の、クラルだわ。
部屋の奥へと消えた親友の影を追うように、開けっ放しの窓へと向かって機嫌良く歩き出した。