少し長く
少し長く、確りと。離せば、クラルの唇のルージュはもう随分と取れかけていた。対象に、ココの唇にはうっすらと、クラルのルージュの色が伸びる。ロカールの交換原理、のような物。視線を絡ませて笑い合う。口元をまたくっつけ合い、離れる。
その裏で、ココはクラルの右足に手を這わせた。包帯に巻かれた足首を一瞥し、くすぐったいですよ。と、笑うクラルの頬に、キスをする。
「君なら……明日の夕方には完治するよ」
「まあ」
クラルは膝を曲げた。足を引き寄せればココの手もそれに倣って、またクラルの腰を抱く。ココの腕の中は暖かくてクラルは緩む頬を引き締められない。くすくすと笑う。
「丈夫な体に産んで下さった、両親に感謝しなくてはいけませんね」
ココも、眉を下げて喉を鳴らす。
「そうだね」
顳かみに押し当てられたココの唇の暖かさに、クラルは声の明朗さが増していくを感じた。ココも、笑う。
ふふっ。どちらとも無く、鼻先を擦り合わせた。お互いがお互いを引き寄せ、キスをする。上唇と下唇で食み合って、リップノイズを何度も響かせて吐息を絡ませる。離れているのが不自然な事のように。愛を囁く。
「クラル……」
ココの唇が口の端から頬、耳の下へと動く。名前を囁かれる。愛おしい人に、愛おしい声で呼んでもらえる。たったそれだけのことが嬉しくて、胸が心地良く痛む。
「今夜、泊まってくだろ」
低いココの声は熱っぽく、鼓膜から体の芯を撫でてくる。唇が耳の軟骨を緩く食む。
クラルは小さな嬌声を詰めた。熱く湿った吐息に、剥き出された背中の曲線を意味深く撫で始めた分厚い掌。もうひとつの手は二の腕に伸びて、ロンググローブを腕から抜き去ろうと引っ張る。クラルは忍び笑いを零す。
その口を、短くココの唇で塞がれる。
「安静にって、言われたしさ。変に歩いて治るのが遅くなったら……困るだろ」
「変に、だなんて」
掌を撫でる無骨な指を感じたら、片手の先迄外気が触れた。ぺたんこになった手袋はココの手でクラッチに重なる。
その手が、すうすうとした指先に一度絡んで離れ、腰をしっかりと包み込まれる。体に、ココの体を押し付けられる。クラルは思わず口を引き結んだ。
「ココさん、」
「何?」
少し持ち上がった太ももの柔らかい裏側に、男の張りを感じた。衣類越でも分かる存在感はもう苦しそうに怒張していて、頬が熱くなる。ココは、知っているくせに素知らぬ振りをして喉を短く震わせる。
腰の辺りを撫でていたココの指先が、ドレスと肌の隙間に入り込んだ。肌に密着するよう計算されていた布地が僅かに突っ張る。
「あっ、もう」
背が撓る。ココは、もう一度喉で笑う。嬉しそうに、
「着替えは翌朝、持って来てもらえば良い。大丈夫、何もしないよ。約束は出来ないけどさ」
「……そう言うこと、仰るの?」
手を諫める代わりにクラルは、体を起こしてココの左腿を跨いだ。長い足の間に片膝を付く。ふふっ。さっきから心がくすぐったいままで、動く度に笑いが溢れそうで、抗いきれない幸福感がココに触れられた場所から染み込んで来ている。もしかしたら彼の掌はそういった特別な成分を生成しているのかもしれない。触れ合いで、クラルを幸せにしてしまう何か、特別な物。ココに関してはそれがジョークに聞こえないから口に出すなんて出来ないけれど、クラルは時たまぼんやりと、思う事がある。
ほんの少し見下ろせる距離になったココの顔を、色や質感のちぐはぐな両手で包んだ。
真剣な瞳の中に大きな熱量が見えている。情愛を隠さない口元は微笑んでいる。クラルも、笑った。
ゆっくりと、ココへと顔を近づける。背中に回された彼の掌がじれったいのは嫌だとばかりに、肌を押す。鼻先が掠れ合う。お互いに、笑う。触れ合う。
男の唇は親しみ深い柔らかさを持っていた。微かな苦みはふたりの間を行き来するルージュの抵抗かもしれない。それはパーティの喧噪と余韻。いつか消えてく、時の名残。
顔の輪郭に沿って指を当てクラルは、ココの上唇を優しく吸った。ココは両手でクラルの腰を包み、同じ温度で下唇を吸い返す。食み合う。胸を寄せ合う。そっと舌先を出そうとすれば同じ様に開いた唇に先手を打たれる。大きな掌がクラルの腰を両手で包んで悪戯に動く。
ココの口角は上がっていた。クラルは、吐息笑いを零した。その息をココに送って、男の口腔で舌を擦り付け合う。滑らかな体液に助けられた行為はとてもスムーズで、抵抗の無い睦み合いは、優しい味がする。すんと冷えた石の様な味。劣情を潜めた、あたたかさ。舌の裏側を分厚い男の舌先で舐られて、開きかけた口はその上下の唇で挟み込まれる。柔らかく、性感を昂らせる舌技に翻弄されることを楽しんで、クラルはココに応えた。唇が濡れていく。融解したかのように。水音が立つ。下肢の力も抜けていく。それなら、寄りかかれば良い。逞しい胸元に自重の総てを委ねて、女の柔和さを全部、預けてしまえばいい。彼は全部受け止めてくれる。
合わせる胸の鼓動が混ざる。送り合う吐息の所在さえ、もう、どちらの物か分からない。唇を吸われ、吸い返す。舌先、口腔、濡れた音、呼吸、疼き。それでもココもクラルも少し笑っていた。分からないのが正しいことなのかもしれない。理由なんて無い。全部初めから、決まっていた。
「ココさん……」
息が切れかける前に、離れたクラルはその近さで、囁いた。濡れた唇を細く繋がらせたまま。脚の間に宿った微熱の疼きを持て余したまま、剥き出しになっている方の指先で、ココの頬を撫でる。臀部に感じる彼の両手の暖かさや中程を求める武骨な指の質感に、そっと笑う。鼻先でキスし合う。
「クラル、」
ココの指が、ドレスの腰に隠されていた細いファスナーを探り当てる。巧妙に閉じられた肌を見たいとばかりに。期待を隠さない熱っぽさが声を漏らす。その発声が、クラルの中で定めていた合図だった。
「私、今夜は、帰ります」
無言のまま息を飲んで驚いたココの表情に、また、ふふふっと笑った。
その笑みはココからして、悪戯を仕掛ける子供の無邪気さに満ちて映った。それでも既に異性を知っている足、腰、肩、唇や鼻先目元、全ての曲線から滲む艶やな魅力は隠匿のしようがない。一瞬目を瞬かせて、苦笑する。
「帰るの、かい?」
「はい」
駄目元で訊いてみる。
「冗談だろ?」
「いいえ」
「……どうして?」
「どうして。って、どうしてです?」
掠れたと息の囁きに、ココは口ごもる。どうして、って、そりゃあ……あれだけ情熱的なキスをしておいて、体を押し付けておいてこんなの、生殺しだ。いや、怪我を負っているから無理をさせる気はないけれど、きちんと労ることが出来るしクラルもそれは知っていると思うし。口の中で心中と葛藤する。クラルの甘い味がたっぷりと広がる口腔内。残っていた体液を飲み込めば腰の前が燃立つのにクラルは、くすくす笑う。健康的に、快活に。
「今回の旅行は、マリアに誘われたものですから」
自ら、ココの額に額をすり寄せる。繊維の粗いターバンの感触が少しずつ、ずれていってもココは咎めない。寧ろもう外しても良いとさえ思う。彼女との触れ合いに、布地なんて野暮以外何者でもない。
そんな彼の心境なんて知らずにクラルは告げる。
「親友を蔑ろにしてしまう様なそんな薄情な女性には私、なりたくありません」
「それは……」
「もしかしてココさん、そちらの方がお好みでした?」
「……いや」
目の前で花が綻ぶ。甘く艶のある香りと一緒に、ふふっと、笑う。そして、よかった。と、嬉しそうに微笑む。「ですから後ほど、お電話をお借りしますね。着替えを持って来ていただかなくては」ココの眉間にキスをする。色はもう、うっすらとも付かない。ただ、小さく不遜に刻まれた皺が見えて、愛しさにクラルは何度も喉を震わせる。
「分かった……、うん。分かったよ」
ココの両手が腰へ昇って来る。表情は苦渋を滲ませているのに、必死に作られている笑顔がちぐはぐで、また笑いを誘われる。
「君の、言う通りにしよう」
「ありがとうございます」
「だがせめて、」
熱い指先が、背中の窪みを這う。そわっと浮き上がりかけた体の反応を素直に楽しみ、クラルはココの唇をもう一度、人差し指で遮った。ココの目の前で、見つめ合ったまま、ふふっ。と、
「明日のお昼からでしたら、お空けします」
唇だけに熱を持たせて、ココが言いかけただろう言葉をかすめ取る。
「マリアが、サニーさんとランチの約束をなさっててそのお時間なら、私、ご一緒できます」
ココが目を見開いたまま口元に感情を反映させていく。それが可笑しくて、愛しくて、クラルは堪らず笑いを零した。さっと、唇に唇をくっつけて離れて、喉を鳴らす。もう何度目かも分からないくらいに。
「クラル、君」
ココは、ふっと一息零して直ぐに、くくっと、肩を震わせた。
「はい」
「きみ、さあ」
クラルの腰からその体を引き寄せ、抱き締める。
「はい。なんでしょう」
「参るよ。本当」
「まあ」
ふたりの笑い声が50平米強の室内に谺する。玲瓏と、その声で部屋に明かりを灯す。
「四天王ココ様を参らせるなんて私、もしかしてなかなかじゃありません?」
「全くだ。あ、いや」
出し抜けに、ココの笑いが止まった。ぴたりと、クラルの笑いも治まる。ただ、表情だけはお互い変わらないまま、
「どうなさいました?」
「条件を出したい」
「条件、ですか?」
「ああ。あれさ」
言うなり、顎で書斎デスクを差す。正確には、その上にある固定電話。クラルの視線がそれへと映る頃にココは、クラルを抱きしめる力を彼女の骨が軋むか軋まないかのぎりぎりに強めて、耳元に唇を寄せた。
「使うなら、明日は君を帰さない」
わざと囁きに吐息を含ませた。クラルの唇から短い微熱が溢れて明朗に笑っていた顔に女の色香が落ちる。「ココさん……」解れ下がり始めた髪の数本が落ちている美しい首の曲線に、ココは指を這わせながら「どうする?」意地悪い声で訊いた。そのまま、耳の軟骨にキスをする。その唇の感触にクラルは色声を零したけれど、直ぐに、
「……明日以降は、よろしいの?」
ココへ顔を傾け、色の滲む口元で彼の口を短く食む。ふふっと、微笑う。ココは嬉しそうにくっと笑った。
「……完敗だ」
離れたばかりの唇を追いかけて啄んだ。