翻弄
翻弄されている状況だとクラルは気付いていた。
すっかりココのペースで現状が進行している。不意をつきたくて何も言わず唇を拭ったけれどココは少し驚いただけで直に、ありがとう。と、心持ち嬉しそうに言った。そうじゃありません。と、思った心の内をクラルは隠した。ぐっと唇を引き結んだから自然と眉間も寄って、ココの目に彼女はふてくされた様に見えただろう。それが正しかったのかどうかクラルには分からない。
分かる事。それは結局、自分は何も解決しないままココの部屋に通された事。
コンシェルジュが壁面に設置されているカードポケットにカードを差し入れて明かりを灯した室内は、クラルとマリアが投宿する部屋に比べたらインテリアは控え目ではある物の、色調に調度品からは高級感が伺えた。壁面がクローゼットに成っている短い廊下をココに抱きかかえられたまま進む。
扉を開けて直ぐにバスルームが見えなかった事で予想はついていたけれど、進んだ先にはリビングルームがあった。対角線上にある窓は壁一面をくり付いた様にで開放感がある。もっとも今は夜で、室内の方が明るいからカーテンも引かれていないそこには慌ただしく入室して来たココとクラル、そしてコンシェルジュと船医の姿が伺えてクラルは咄嗟に視線を外した。先の壁面には絵画が飾られ、室内の中央よりに脚の短いテーブル、それをL字に囲んで肘掛けの無いカウチとチェアが置かれている。カウチの正面には大きなテレビ。隣には固定電話の置かれた書斎デスク。その反対側にはスライド式のドア。きっとこの奥がベッドルームなのだろうとしても、そこはリビングだけで50平米はありそうな部屋だった。床に敷かれた絨毯はペルシャだろう。意匠が伺える精密な模様を持っている。生活感は、当然ない。窓近くに置いてあるサービスウォーターも手つかず。
クラルはそっと呼吸よりも長く息を吐く。大丈夫。私、まだ周囲を見回す余裕があるわ。
窓ガラスに映った、ココに抱き上げられている自分の姿の映像は、脳裏から消し去ろうとした。
「――じゃあ、そこで」
不意にココの声が降って来た。
「クラル、少し動くよ」
「え、あ」
クラルの手のひとつは、ココのベストの襟を握ったままだった。咄嗟に手を離す。
「はい。大丈夫です」
いつもの癖でココを見上げれば、苦笑している顔にぶつかった。
「別に、そのままでも良かったんだけどな」
言うなり、少し進んだココが先ず、手前のチェアに腰を下ろす。ゆったりとして、背を預ける部分も広く座り心地の良さそうなよく鞣された革張りのチェア。ふたりなら問題なく横並びで座れそうな作りなのに、クラルはココの膝の上に乗せられた。自然と両足が、そこからテーブルと平行で投げ出す形に成る。え? と、クラルは思った。どうして私、ココさんの上に座らされたの? 膝の裏にあったココの腕が、クラルの座りを整えられた後に抜き出されて、腹部に回る。上半身を抱きしめられる形に、クラルは困惑した。
ココの行動原理が全く分からない。心理が読めない。ただ、いまクラルの服にはココの衣装の繊維や皮膚にある何かしらの痕跡が自分へと付着して逆に、自身のドレスや肌にある何かしらの繊維や存在がココへと残るのだろう、つまりロカールの交換原理が起こっている事だけは分かった。分かった所でどうしようもない、意味も無い。ついでに今更でもある。
船医が、ふたりの様子に一度肩を竦めてみせた後、足下に膝をついた。さっきは気付かなかったけれど、体に袈裟懸けに持っていた救急バッグを横に置く。クラルのパンプスを脱がせながら、大丈夫。パーティの後はこう言う患者さんが特に多いから、気にしないで下さい。と、言った後に、ああでも貴方の捻挫は軽症ね。コレなら数日で治りますよ。と、冷却湿布にテーピングをボックスから取り出し。必要な説明を告げた。気にしないで。と、言われた言葉の意図が、捻挫した足だと言う事に時間は掛からなかった。
処置が進む度に、混乱が収まって状況が明確になっていけば良いのに。願ったけれど全部、意味の無い事だった。足の痛みが冷たさと鎮痛成分で抑え込まれていっても、ココの腕はクラルを開放しない。優しくて、暖かくて、心地いい。一度、頭に唇を押し当てられた気がした。問題も気がかりも何も無いみたいに。いつもの様に。
手当が終わり簡単な今後の説明(第一に安静にすること、今日はシャワーだけにして、患部はなるべく温めないこと。湿布は翌日張り替えること)を受けた後に、退室を申し出た彼等を見送ろうと立ち上がりかけた体はココの腕に制されて、ですが、とココへ伺えば「僕が代わるから」と、彼は器用に立ち上がった。クラルはその場で、船医達と握手を交わし、見送れない謝罪と足労の謝辞を口にした。その時ココがクラルの頭から輪郭を愛おしそうに撫でたから、見送りを受けた彼等に、ふたりは呆れる程仲睦まじく映っただろう。何事かが起こっているなんて、分からない程。
分からない方が、良いかもしれない。クルーは、ココがどう言う人物かきっと知っている。
玄関へと遠ざかる音を聞きつつも足を見つめる。白い包帯がぴったりと巻かれた右足。膝から持ち上げる。ドレスの裾が柔らかく捲れ上がる。左足の先は未だ床に敷かれた絨毯の上で、パンプスの窮屈さを味わっている。
ふと、影が差した。見上げると同時に、ココがクラルの足下に膝をつく。
「酷い怪我じゃなくて良かった」
そっとクラルの足に触れる。その声には深い安堵が滲んでいた。
「ありがとうございます……」
クラルは感謝の言葉を繰り返した。最もその前の謝辞は、ココでなく、船医やコンシェルジュへと向けた物だったけれど。同じ言葉が続くと心が、少し落ち着かない。
不自然な沈黙が流れていた。ココもクラルも、それ以上何も言わずにただ、静けさに身を任す。
言うと思えば何でもあった。お互いにそれほどおしゃべりなふたりではないけれど、クラルも、会話を作ろうと思えば作れた。部屋のこと、借りたテールコートの返し方。それかいっそのこと、退室を口にしても良かった。――ああ、そうね。もう、そうしてしまおうかしら。
クラルにココを責める気はない。ただあれは、言わなければ成らないことだった。言ってしまった今、クラルからあれ以上を口にする気はない。黙り込んでいるココに、会話を求める気力も正直、枯渇している。今日は色々なことがありすぎた。もう何日も日が経っている様な気さえするけれど、モバイルを落としたこともココの内心を聞いてしまったことも、逃げ出したことも助けられたことも今も、全て一日で起こったこと。そう思うと、この疲労感も、頭の回転が鈍っている事にも納得できる。香水のラストノートが甘ったるくも感じる。
ふう、と。息を吐いてクラッチを持ち直した。この足ではパンプスはもう履けない。何か、履きやすいフラットシューズを用意する必要がある。と、クラルはバトラーの存在を思い出した。そうだわ、電話をお借りして部屋に繋げば出て下さるかも。グルメ馬車の方だからきっと、事情を話せば着替えと靴を持って来て下さるかも。
自室を思い出す。確かベッドのシューズカバーの上に、今日着ていた服を畳んでそのまま置いている。その足下には、サンダルも。お願いして一式を持って来てもらう。良い考えかもしれない。ドレスのままでは、何かと窮屈でもあるから。そうね、そう、相談してみましょう。
その為には先ず、電話を借りる必要がある。
「ココさん」
「……何だい?」
その問いかけと一緒に、ココはクラルの手に手を重ねた。
「その、そちらにある固定電話をお借りしてもよろしいでしょうか?」
「どうして?」
足下に膝をついたままだからココの視線は自然と、クラルを見上げる形に成る。
「部屋に電話をして、着替えを持って来ていただこうかと。このままでは、落ち着きませんし」
「部屋に?」
声に含まれた疑問が、直ぐ平坦になる。
「マリアちゃん、かい?電話しても、僕の部屋のフロアには来れないんじゃないかな」
「いえ、マリアではなく……バトラーの方に」
「え?」
ココの声と、手が反応を示す。
「執事……?」
「お話、していませんでしたか?」
「いや、聞いてない」
言葉と一緒に横に振れた首の動きに、クラルは少し、通話内容を思い返した。
「あら、そう言えば……」
伝えていない。
「すみません。そう、いらしたのですよ」
「性別は?」
「男性ですが、」
ココの眉間に皺が寄る。不快そうな顔を前にクラルは、続けた。
「お年は還暦を過ぎるかのオールド・ミスターで、真面目な方です。船内に奥様がいて、彼女はチーフハウスキーパーをされていると」
知っている限りの情報を開示した。
彼はクラルに自分以外の男性が近づくことをあまり歓迎しない節がある。独占欲強過ぎよね……毒だけに。記憶の中でマリアが肩を竦ませて笑う。マリア。と、記憶のクラルは彼女を叱責した。
といっても、さすがに年配の人に嫉妬も何も無いかもしれない。
「そうか。……まあ、マリアちゃんなら手配しそうだね」
やおら、ココが動いた。
「ええ……、ただ今回は、小母様のお仕事の関係とで、その」
クラルの手を一度撫でた後に腰を浮かせて、チェアへと踏み込む。クラルは僅かに、体を引かせた。
「執事なら確かに、このフロアに来れるだろう。クルー用通路に、おそらくこのフロアのマスターキーもある。一度僕宛てにクラブデスクから確認の電話が入ると思うが、僕が了承を出せば直に、君が望む物を持って現れる」
肩にかかっていたココのコートがチェアの座面に落ちてそして、床へと滑る。ペルシャ絨毯の柔らかい場所へ。咄嗟にその行く先を追う。
「あ、」
「その後は? 受け取って、その後」
「その、あと……は、」
その一瞬、ココから視線を外した。この状況より、ココのテールコートの方を心配した。それが、いけなかった。
「それより、ココさんの上着が、」
ココの声が微かに鼻白む。
「構わないさ。どうせ明日、まとめてクリーニングに出す。それよりどうするんだい?」
チェアの背が軋む音がすぐ横から聞こえて、クラルは、反射的に身構えた。