クラルは広げたバインダーをそっと閉じた。
腹を括りましょう。
ここ迄来たら乗りかかった船、もとい、馬車だ。何より持って来たトランクはもう室内に運ばれてしまっている。
「ねぇクラル、何なの?」
「マリア」
クラルは訝しげに自分を見上げるマリアの横に腰を降ろした。真っ直ぐに背を伸ばし、じっ、と、マリアを見つめる。マリアの瞳が一瞬、何かを感じ取って揺れた。
「マリア、あのね…」
「いや。なんか聞きたく無い」
間髪入れない拒絶に、僅かに頭が垂れた。此処が漫画の世界ならきっと、がくん。と、書き足される程、深く。
「あなた…また、そんな事を…」
苦々しく呟けばマリアは、
「だって、だっていっつもそうだけど、あんたがそうやって伝えて来る事っていい結果だった事が無いのよ!」
「今回は分かりませんよ」
「いやー!そんな事無い!絶対無い!」
「それは聞いてから判別なさって下さいな」
「だって……」
「サニーさんも今日からこの馬車を利用していますよ。ってそれだけですから」
「あ、なんだ……って、嘘!?何よそれ!」
やっぱり聞いていなかった…。マリアの狼狽えぶりにクラルは深い息を吐き出す。サニーさん、貴方はまた何をなさってるの…。マリアは恋人でしょう。心の奥に何か不穏な物がめらっと燃えた。
「私聞いてないわ!」
「でしょうね……」
でも、クラルが今一番問題視しているのはそこじゃない。マリアには酷かもしれないが、聞いていなかったにしろ、今聞いたならそれでも良い。と、思っている。今、この場で連絡をして確認すれば良い。でもきっと、今のマリアは意地が先に来て、出来ない。
「マリア……」
「な、何?」
「やっぱり、貴女からサニーさんを許す気はないの?」
萎縮していたマリアの目がはっと見開く。唇が戦慄き、捲し立てる様に、
「ゆ、許す許すさないの問題じゃないわ!だって、何回目だと思ってるの!?あいつが私に黙って修行に行くの!……前なんて勝手にグルメ界行っちゃって……死にかけてるのに……」
マリアの声が少しずつ小さく成っていく。満身創痍のサニーを思い出したのだろう。俯き加減の表情は微かに悲痛を滲ませている。
「マリア……」
「……あんただって、ココがそんなんなったら…嫌でしょ」
クラルは答えられなかった。それに関してはココに限って……なんて、言えない。実際クラルは以前にグルメ研究所で衣服損傷、満身創痍のココを見ている。本人は掠り傷だ。と、直ぐに治るよ。と笑ってくれたけれどクラルはその時、歯を食い縛っても、笑えなかった。
「だから……そうよ!サニーが居たからって何だって言うの?別に居ても、今の私には関係ないわ。だってクラルも居るんだもの。サニー一人が居た所でどうって事ないわ。そうでしょ?」
「……お一人じゃ、ありませんよ」
マリアの目がもう一度見開いた。そして、口元は引き攣って行く。は?え?と、声でなく表情が語っている。それを見てしまうと少し、勇気が必要だったが、クラルは言った。だって、隠し立てする様な事でもない。
「サニーさんとご一緒に、ココさんも…乗船?しています……」
グルメ馬車はその名前の通り、馬が引いている。型式は二頭仕立ての所謂キャリッジだ。ただ、牧歌的な風景で良くお見かけする様な馬ではなく、ギガホースと言う世界最大の馬の力が動力源。だから乗船と言うのは正確性に欠けているだろうが、クラルは敢えてそれを選んだ。
だって人間等ひずめの先程も無い二頭の巨大馬が引くキャビンは贅沢の限りを尽くす、十階は有る客船仕様だから。ちなみに、牽引した時の抵抗が少ないよう、レールと触れ合う部分は巨大なスキー板が付いている。
待合個室の大きな一枚窓から伺えるその姿は圧巻だけど、船に焦点を当てると何処かシュール。けれど今のクラルは、それを良く鑑賞している余裕は無い。
「嘘、」
「本当。昨夜、こちらに前泊したココさんとお喋りしたばかりですから」
「そ、嘘よ…そんな。ココも、って……」
マリアの顔から血の気が引いて行く。
他にも、クラルは昨日になってトリコや小松もグルメ馬車に乗る事になったとココから聞いたけれど。このままの流れで言って良い物かいけない物か。言い倦ねいてしまう。タイミング的に。
だって、マリアの気持ちは、クラルにも分かる。きっとどうあれサニーが心配なのだ。だから女心から、修行とは言え危険ばかりに飛び込む彼に、憤慨してしまう。
でも、サニーの気持ちも分からなくもない。心配を掛けたくないのだ。彼の性格、そして美学から。
「マリア…」
動揺を隠せずにいるマリアの肩に触れる。アップスタイルで露になった首筋に汗がじんわりと浮かんでいる。
ぽつん、と、マリアが呟く。
「……クラル、取られちゃうじゃない…」
クラルは思った。何ソレ……そっち?
「……意味が分かりません」
「シンプルよ!だって、ココでしょ!クラル、あんたはココに会ったら絶対に部屋に誘われるわ!そしたらそっち行っちゃうでしょ!?」
そんな事はありません。と、言うべきだろうけど、気休めでも何故か言えなかった。容易く想像出来てしまう辺り、そして、そうなったら目的地迄の約一ヶ月間強もの時間をココと一緒に過ごせる。嬉しい。と思ってしまった事も、余計に言えない。
友情に、申し訳無さ過ぎて。
「……でも、ココさんもサニーさんも目的は修行よ?遊ぶ事じゃ、」
「あんた、今の間で何考えてた?いいなって、断れないって思ったでしょ!」
「……………」
「やっぱクラル取られるー!いやー!」
大袈裟にテーブルに突っ伏したマリアに、その時はマリアはサニーさんと一緒に居れば良いのに。と思いつつ、それでも彼女に掛けるべき適切な言葉を考えつつ、クラルは溜息を吐いた。そしてほったらかしだったウェルカムドリンクを取り、こっそりと思う。
――……私、この状況をココさんにどう説明したら良いのかしら。
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割り当てられた客室に辿り着いたココはデスクの足元にボストンバックを置いた。デスクに置かれていた馬車内の地図と当面の予定表を手に取り、ベッドに腰を下ろす。
自身の体格を考えて取った部屋はそれなりに良いランクだからかベッドは大きく、マットレスは上質。2m100kgのココ以外にもう一人居たとしてもびくともしないかもしれない。……今回はお一人様だけど。
「……いやいやいや」
一人がどうした。今更寂しがる年でもない。勿論こんな、ハネムーンや銀婚式等で人気高い贅沢な旅になら……クラル、を連れて来たかった。だって丁度彼女も同じ時期に約一ヶ月半のバカンスを取っていたから。
けれど、今回は美食屋四天王としての修行を兼ねている。
幾ら周囲がカップルばかりとは言え、目的が目的だ。彼女が休暇中であっても、恋人同伴は不謹慎だろう。連れて来るのは今度改めて…それこそ、新婚旅行とかに。クラルは馬が好きだからきっと、喜んでくれ、
そこ迄考えてしまったココは、軽く頭を振った。危うく妄想に耽る一歩手前だった。息を吐き、感情を切り替える。改めて予定表を確認する。
予定は一週間分書かれていた。
出発時間に始まり、その日その日の食事の時間、そしてイベントにカルチャースクールのお知らせ。パーティーがある日はその時刻も記されている。どうやら、今日夜に早速、上階の社交ホールでダンスタイムを設けたウェルカムパーティーがあるらしい。
ココは顎に手を添える。
――これ……燕尾服、でもいいよな?
ココ一人であれば余り参加したく無いイベントだけど、ココがグルメ馬車で過ごす二ヶ月の内一ヶ月はサニーと一緒だ。サニーはこう言った社交が好きだから付き合わされるのは目に見えている。基本、その様な場には男女関係なく一人で行くのは好ましく無いし何より、初日の今日と明日は、急遽トリコと小松がツアーに参加した。
必然的に、連れて行かれる。
念の為。と、持ってきてよかった。
ココはポケットからモバイルを取り出した。画面をタップする。解錠する。現れた待ち受けの画面に一瞬だけ指が止まるが予定を中に打ち込んでしまおうと、スケジュールを開いた。出発前のランチが用意されているからと、サニー。そしてトリコ達に言われたが、打ち込むだけの時間はある。そしてこれを済ませたら……
無意識にココは微笑む。
――これを済ませたら、クラルに連絡しよう。無事、乗車した。と。
勿論、それを伝える事だけを目的としていない。思い出すと落胆を誘う感情が蘇って来るが、クラルは昨日から約一ヶ月半のバカンスを貰い、その中の今日から約一ヶ月間、マリアと旅行に行くとココは聞いていた。企画者であるマリアがミステリーツアーだと言っているとかで、当日、つまり今日迄行く先が分からないとかも。
ココは画面右上の時間を確認した。
十一時三十分。
もしかしたら、未だ目的地には着いていないかもしれない。でも……電話くらい、しても良いだろう。それに彼氏として、彼女の旅行先は把握させて貰いたいし、目的地ではなくとも、何処へ行くかはもう聞いているかもしれない。
何より、今を逃したら次にココから電話出来るのはきっと夜中、下手したら明日だ。
「……よし」
必要なスケジュールを打ち込み、最後に船内図を撮影してたココはそのまま待受画面に戻り、短縮ダイヤルのアイコンを押した。
すっかり見慣れたナンバーが点滅を繰り返す。
スピーカーを耳へ近付けた彼の口元は完全に緩んでいた。