動揺していた
小松は、動揺していた。
「すみませんココさん…その、」
「いや、僕も気づかなくて…すまなかったね」
「いえいえ。ボクも…ちょっと…」
「何か、あったのかい?」
「あ!いいえ!そんな、」
慌て、驚きながらも内心は穏やかじゃなかった。ちょっと、ココさん、来るの早すぎる。心臓がどくどくと打ちなってうるさい。ていうかボク、もしかしなくてもかなりヤバい状況なんじゃ…。ココの前では、あははー…。と笑いながらも心臓はばくばくしていた。
「そうか…」
ココが小松に微笑みを見せる。その姿はいつもなら、カッコいいなあ。と見惚れてしまう物なのに、今はそんな感想よりもつい、背後をきにかけてしまった。冷や汗が出てやしないかと、気が気じゃない。
それは、少し前の事。
小松がお手洗いから出て、廊下からパーティ会場へ入り直そうとした時だった。
「あれ……?」
視界の奥に或る扉から、出て来た女性に目が止まった。飛び込むように現れたその人は、どこかただならぬ様子で周囲を見渡している。
この場所で見た女性達はみんなそうだけど、彼女もまた煌びやかなドレスで、小松からしたら背を正して立っているだけでも尊敬する程に高いヒールを履いていた。髪もきちんと結われ、首筋だけでなく背中だって露にしているけれども小松は、気づいた。
「えっと、確か…」
ととっと、近づく。女性は閉められた扉を背に、少し青ざめた様子で頬に手を充てている。
近づくにつれ、小松の予見は確信の色を濃くしていった。自分と良く似た色合いの髪、見覚えのある肌の色味に、そして、今日は以前見た時よりも華やかで身長も高くなっているし、心なしか色香も増している。それでも、醸す雰囲気の根底には覚えがあった。
「もしかして、クラルさん?」
その声に女性が、はっと、とても驚いた顔で振り向き、
「……小松、さん」
「あ、はい……」
まさか、そんな反応をされるとは思って居なかったから小松の方も驚いた。そんな、まさか、サスペンスドラマで追いつめられた人の様な驚き方。あ、でも何事かあった様子だから驚かせたのかもしれない。てかやっぱり。クラルさんだった。間違えてなくて良かった。小松は調子を整えて、えへへと、笑った。
「すみません、びっくりさせるつもりは、」
「あの!」
一歩、近づこうとした。けれどもそれよりも早くクラルは身を乗り出して、すっきりと、控え目ながらも力強く小松に捲し立てた。
「かくまっていただけませんか!?お願いします……!」
「へ?どうし、」
「理由は後でお話し致します、今は、」
「え?」
「お願いします。あ、それかココさんがいらしても、あの、私の事は何も、彼には教えないで下さい……!」
「あ、ココさん…ココさん!?」
小松は、心底驚いた。さっきも驚いたけれど、今とは比べられない。え?クラルさん?何言ってるの……? 驚愕の裏で、先ほど懇願された言葉を反芻した。
だって、自分が知る限り目の間の女性は、以前にココから紹介を受けた、彼本人の恋人だった。
その時の事を、小松は良く覚えている。2人は本当に仲が良くて、小松が籍を置くホテルグルメのメンバーの殆どが2人の関係に辟易とした位だ。
最もその次に小松がクラルと会った時は、恐らく素面だったと言う事もあってか初めて会った時程、ココといちゃついていなかったけれど(それどころか先の行動を謝られてしまったけれど)それでもお互いがお互いに気を配って、想い合っているのは分かった。というか、共に並ぶ2人の距離はずっと近かった。
しかもクラルがふと、何かを探す動きをしたときなんて、その目線だけでココはハニーポットを彼女の傍に置いていた。その逆で、ココの箸先が僅かに止まった動きだけで、クラルが彼の近くに醤油瓶を寄せた事もあった。その度に、顔を見合わせそれぞれが特別な微笑みで視線を交わし合い、お互いにしか聞こえない様な礼を述べ合っていた。2人は無意識だったんだろうけれど、小松はちょっと感心したからよく覚えていた。互いの味覚の癖を先読みできるなんて凄いなあ…本当に、想い合ってるんだなあ、と。
だから小松は、声を上げずにはいられなかった。
「ど、どうしたんですか!?」
あの、お二人が。あのクラルさんが、ココさんに対して逃げようとしているなんて、おかしい。
「ココさんと喧嘩でもしたんですか!?」
「あ、いいえ……そう言う訳では、その」
「てゆーか何故ここに!?」
「あ、こちらへは友人と、バカンスへ、」
「え!じゃあ偶然ですか!?凄い!!」
「ええ、偶然で……と、小松さん、落ちついてください」
辺りを伺いながら困惑するクラルを前に、小松はただただ驚きと、疑問符を浮かべ続けていた。
クラルの様子はもう、早く、逃げなくてはいけないのに。と、言わんばかりで。しかも、このまま居たらココさんと鉢合わせしてしまう。そう言いたげで、小松にはますます分からない。
「お話は後で、ですから今は、」
ふと、クラルの視線が或る一点を止めた。小松はクラルを見上げて、首を傾げる。丁寧にリップの引かれた口元が、きゅうと、結ばれていた。
「クラルさん?」
怪訝に思った時だった。
「小松さん」
クラルに、手を掴まれた。
「へ?」
「すみません」
え?謝られた?なんで? 思うと同時に、クラルが小松を引いて、足早に歩き出した。
「え、えぇぇえええ!」
ざくりとした絨毯の床の上を足早に、でもどこか辛そうな動きで、葉巻室を通り過ぎて行く。小松にはもう、何がなんだか分からない。ただ、 え?ボク、ココさんの彼女さんと手繋いでる?え?これ、大丈夫な事!?と、良く分からない混乱をしていた。
やがて、横の細長い空間をREST ROOMと書かれたプレートの先へと連れていかれて、
「あの!クラルさ……!」
「あの、少し、お静かに願います……!」
通路へ入って直ぐの所、小松が今しがた出て来たばかりの辺りで、クラルに口を塞がれた。小松の鼻腔にクラルが纏うモン・パリのミドルノートが触れる。穏やかな良い匂いがして、本当に、小松は訳が分からなくなった。クラルさん香水付けるんだー。と、思ったし、いつかにトリコが、ココは意外と嫉妬深い。と、言っていたのも小松は、思い出していた。あいつは大体が無頓着なんだけどよ、その分気に入ると人だろーが物だろーが、執着心が強いんだよな。と。そう言えば良く、似た様な服を着ているとその時は思った。あれもその一抹なのだろうか。
それ以前に執着心の強さなら、小松は間近で実感済みだけれど。だってココはクラルがその場に居る限りずっと、彼女の右側に居た。
「あ」
やにわ、クラルが声を上げて、その肩を強張らせた。気になって、ちょっと顔を持ち上げて、小松はクラルの視線の先を追った。自分達を廊下の照明から隠す角の向こうにある扉が、勢い良く開いたと思ったら、見慣れたシルエットが飛び込んで来た。あ、ココさん。先ほど迄一緒に行動していた美丈夫が、小松の視線の先で酷く焦っている。ココさんのあんな顔、ボクが死にかけた時ぶりかも。なんて思ったと同時に、小松はクラルの手で更に奥へと、引き込まれていた。
なんか、ボクだって男なのに、女性にこうも簡単に連れられちゃうの、ショックだなあ…。トリコさんと一緒にいて、ちょっとは鍛えられたと思ったのに。小松は目の前で顔色悪く何かを思案しているクラルを見上げて、落胆しかけた所で、気づいた。
今、自分の唇は手でおおわれている。
女性の手は初めて見るものじゃないし、学生時代に手を繋いで下校した事だってある。成人してから後は、仕事一辺倒だったけれど別に、全く不慣れじゃない。
それ以前に少し前、予期しないことで異性の裸を見てしまった。最もそれは色っぽい事じゃなく、事故だったけれど。しかもその人が小松が尊敬している包丁職人で、才色兼備の女性だったから余りの事にどきどきして、しばらく夢に見てしまったけれど。けれど、今日はまた、別の刺激があった。だって、
−−クラルさん、近い……!
小松は、混乱した。どうしよう、どうしよう。目線を上げれば顎のラインから色づいた唇が見える。女性的な曲線が、ドレスのせいで際立っている。というか、自分との身長差が、不味い。
元々クラルは小松よりも背丈の有る方だったが、今日はヒールのせいで、記憶より高い。小松の目の前には輝かしいジュエリーネックレスが光っている。その向こうに皮膚が、柔らかそうな丸みの影が見えた。はっきり言って、危うい。
これ、ボク、今の状況でココさんに見つかったら……やばすぎる。てゆーかクラルさん、もっと危機感ある人だと思っていたのに……!そう考えて同時に、あ……違う。多分ボク、男として見られていないんじゃん…。気づいて肩を落とした。
だって、ココさんの彼女さんだもん……。きっと、ココさんみたいに大きくて、かっこよくて、がっしりしたマッチョな人がタイプなんだよ……。小松はココを脳裏に浮かべてた。今あげたどれも、小松は持っていない。別にそんな、友人の恋人に迄男としてみられたいなんて、下世話な感情は湧かないけれど、なんだか切ない気持ちにはなった。ふと、つい最近会った、女性の姿がよぎる。……メルクさんも、もしかしたら、トリコさんやココさんみたいな男性が好きだったりするのかな。ボクじゃ、役不足かな…。つい、切ない溜息が漏れる。
「あ、」
「あ。」
口におかれていた手がヒクンとはねて、離れた。
「すみ、ません…私、失礼を……」
「あ、いえ…僕の声、うるさいのわかってますから…」
お互いに小さな声で、謝罪した。
「それにしたって、どうされたんですか?ココさん、凄い、慌てた様子でしたけど……」
先ほど見たココの姿を思い返して、小松はクラルに尋ねた。身を隠したがっているようだから念のため、低い位置からそっと廊下を伺う。
ココは反対側をじっと見つめてやがて、そちらに向かい一歩を踏み出した所だった。見送って小松は、クラルへ向き直る。
「ココさん、逆側行っちゃいましたよ。当てを外すなんて…なんだか、らしくないですね」
「あ………そう、ですね」
「……喧嘩、しちゃったわけじゃ…ないんですよね?」
あの、幸せそうに身を寄せ合って居た2人が喧嘩する所なんて想像付かないけれど…。その疑問は心に留めたところで、クラルが口を開いた。
「はい、そう言う訳では…ただ、その……お会い、し辛くて…」
「何か、あったんですか?」
怪訝に思ったまま小松はクラルへ問いかけた。大きなどんぐり目で真っすぐにクラルを見つめる。
クラルはその眼差しに、向き合う様に小松を見返して、やがてそっと、口を開いた。
「小松さんは、」
「はい」
「ココさんの、ご友人ですので……お伝えしにくいのですが」
「そう言うの、気にしなくていいですから」
「……でも、」
「大丈夫ですって。ていうか、そう言う気遣いされると…ココさん、何かしでかしたのかと思っちゃいますよ…」
言いながら、その何かの可能性を小松は一瞬想像した。でもそのどれここれも、しっくりこない。かなりモテるけれど、浮気するタイプじゃない。
「いえ彼が悪いとかでは断じて、ありませんし、あり得ません」
それには即答で、言われた。だったら、と、小松は苦笑した。
「じゃあ教えて下さい」
小松はココの言葉を思い出していた。
いつかの食事の時、偶然ココと2人で話すタイミングがあって小松はココに、クラルの事を『素敵な女性ですね。どこかのお嬢様ですか?』と、尋ねた。
口調や、その所作の穏やかさから何となく思った疑問だったが、それにココは、いいや。と、言った。『彼女は、ただのIGOの職員だよ。母校がちょっと特殊でね……家庭の話題は、彼女にはしないでくれるかい。色々と複雑なんだ』そうして幾つかの会話を経て、『クラルも……小松くんみたいに、何でも明け透けてくれたらな。……ひとりで、抱え込みやすい子なんだ。…ああ。……だからもし、小松くんさえ良かったら、いつか、彼女の力になって欲しい。きっと僕じゃ近すぎてどうしようもない事が起こる時が、あると思う。その時にでも…。まあ、君なら何かある心配もないからね』最後は、毒い!と叫んだ。
「誰かに話した方が、良い事ってありますよ」
「小松さん……」
クラルは、小松を真っすぐに見つめた。
小松はただ、その視線の先でにっと笑う。
少し困った様に下がっていたクラルの眉がほんの少し持ち上がってやがて、いつかの様に、そっと微笑った。
「実は……今日の、お昼頃に…」
静かに、それでも状況を慮ってか簡潔に、クラルはあの柱裏の出来事から、小松に話し始めた。