別にどうってこと
別にどうってこと、ねーし。パラソルの下に備え付けられたデッキチェアに腰掛けて、サニーは鼻を鳴らした。
目の前ではトリコがドリンクカウンターの前を陣取り、その横で小松とココがカップ片手に談笑している。俺だけのけものにして、ツマンネ。サニーは先程とは違う意味でまた鼻を鳴らし、手元のモバイルのボタンを親指でタップした。
開いていた画面がにゅう、と、引き込まれる様に消えて、アイコンが並んだ待ち受け画面になる。
もう一度、今度はアイコンの一つを親指でタップした。レトロな受話器のシルエットを持ったそれは親指が触れると一瞬の暗転の後、画面に真四角の写真を表す。
直ぐ真下に緑色の受話器のイラストを従えて、横には、写真の女性の名前を表示させた。
『マリア』
ゴシック体の英字は、間違いなくその名前をサニーに見せ付けた。
サニーはまた、鼻を鳴らす。けっと、吐き捨てる。
「つに、どってこと……ねーし」
そう。どうってことない。サニーは、心の中で繰り返した。
どうって事は無いのだ。ただ、この緑の受話器を親指で押せば良い。押して、何喰わぬ声で電話してそして、ココに脅された、もとい言われた通りにすれば良い。
まず、いつも通りに挨拶をする。(よお、元気か?)そして相手の状況を確認する。(今、なにしてんだ?)相手の機嫌が最悪でなかったら、言うべき事を言う。(あのよ……)
つまりココ曰く、例え自分に間違った所は無いと分かっていても、この場合は男から謝るべき。なのだそうだ。サニーとしては余りに釈然としない理論だし、それを説いたのが今迄色恋に関しては自分より経験がないと見下していたココだから、やっぱり釈然としない。が、それでも三つ年上の兄貴分から威圧感を迸られた笑顔で言われてしまえば、幼少の頃散々彼の世話になったサニーは何も返せなかった。
口をつぐんでしまったサニーに残された選択は、ココの言葉に従う道しか残されていなかった。
『夕食の時間迄に、マリアちゃんと仲直りしておけよ』
――んで、毒ヤローにそこ迄指図されなきゃなんねーんだし。……ヤラハタだった癖によ。
それでも数十分前に、大きな柱の前で交わしたココとの応酬を思い出せば、今でも苛立がせぐりあがる。
『何時迄もくだらない意固地を張るのは、美しくないんじゃないか?』
自身の信念を容易く駆け引きの材料として使う、ココは卑怯だとサニーは叫んだ。
スマートに無視されたが。
「あークソっ」
美しく整えた柳眉の間を寄せて、右手で乱暴に頭を掻く。デッキチェアの背もたれに思いっきり背中を預ける。ぎっと、パイプが軋む音がしたから、サニーはたっぷりとした自身の髪に潜むナノミクロンの触覚の糸で、椅子を支えた。
濃い色の影を蓄えるパラソルの向こうから、抜けるようなコバルトブルーの空が見える。船首に備え付けられたリゾートプールからは、水と戯れる人の歓声が聞こえる。空気には瑞々しく甘いフルーツの香りが交じっている。
「………」
美しい馬が引く、美しい客船の、完璧に調和の取れた空間は、当然美しい。これで、ボサノバが流れてたらサイコだし。思うと、同時に気分が高揚した。
ココには偉そうな事を言ってしまったが、目的地に着く迄の今の気分は、間違いなくバカンスのそれだ。
捕獲レベルが高いギガホースが牽く限り、何時ものように身体を緊張させ続ける必要はない。その証拠にサニーは今日、オフの日に着る服装を選んだ。同乗したトリコも小松も、以前に同行したハントの時と違い、完全に気を抜いた格好をしている。ココも、インナーにあの身体のラインが浮き彫りの黒い服と緑のテーピングをしているが、その上にジャケットとスラックスを着ている。
だから、後はそう、BGMにボサノバと、特別なカクテルが有ればサニーにとって素晴らしい時間になる。パイナップルやオレンジ、ストロベリーにドラゴンフルーツ、マンゴーと言ったフルーツを贅沢に差し込んだグラスに満たされたドリンク。美容に良いリキュールで作ればサイコだし。想像に、サニーの口角が上がっていく。
美容に良いと言ったら、柘榴、それかアセロラ。若しくはその両方の特性を持ち合わせた、ザクロラの実から作ったカクテル。それに、グァバをシェイクしたもの。ふ、と。サニーは思い出す。
――そいや、マリアの奴、グァバ好きつってたっけか。あと、俺が前にキューティクルベリーの話したら羨ましがってたし。……土産に、採って帰った方が、機嫌なおんじゃね。いつ、すっげ単純だし、。
思い出して、暫く、空を眺める。ぼんやり、ぼんやりと見える姿のまま、内側で気不味さを感じ始めそして、のっそり、身体を起こす。
「電話、すっか……」
尖った唇でぽつんと呟いて、人差し指で少し赤らんだ頬を二度三度と掻いた。画面を一瞥し、僅かな俊巡の後、通話アイコンをタップした。
モバイルを耳に当てる。暫くの沈黙の後、回線が繋がる。
「…………」
通話中だった。
「――っざけんな!」
納得のいかない憤りが、サニーの口から吹き出した。サニーは後少しで、モバイルをデッキに叩きつけそうになった。