灼熱色の太陽
灼熱色の太陽と肌を刺す日差し。そして港一杯に溢れた人混みから避ける様に案内された特別な待合室の中。
それを差し出されたクラルは思わず目を点にしたまま動けなくなった。フリーズした顔のこめかみから嫌な汗が伝う。これは、一体なんのジョークかしら。
「どうしたの?ほらクラル。あんたの分よ」
でも上機嫌なマリアにそれを押し付けられしかも最高の笑顔まで添えられた時、これはジョークでも無ければドッキリでも無いと察した。
マリアが人を振り回す性格なのは今に始まった事じゃない。だからクラルは、元々他人に関心が無いのかと思われてしまう程のマイペースな子供ではあったけれど、ある程度の社交性を身に付けた今でもマリアに関しては何が起こっても(起こされても)もう、さほど気にしない。
成人を過ぎた今も感情のままに振る舞うマリアは、寮生時代から大体こんな感じだから。今更どうこう言うなんて野暮だ。何より本当に困った子だと思うなら、どんな事情が絡もうともとっくに縁を切っている。
でも、流石に今回はその振る舞いを叱責しても良いかもしれない。たまには周りにきちんと聞くか確認して……情報を共有してください。と。
胸で受けたご大層なB5サイズの革製バインダー。しっとりとした肌触りのそれをクラルが両手で受けとるやいなや、マリアは満足気に笑う。二人の前のテーブルにウェルカムドリンクを置いていったボーイを見送って、椅子に腰を降ろす。それにしても暑いわねー。なんて言って、ハンドバッグから出したハンカチで額に滲んだ汗を拭う。
そんなマリアとは対象的に、クラルは汗を通り越して血の気が引くのを感じた。
裾を軽くロールアップした麻素材のボトムス。襟元にビジューが付いているタンクトップ、ロングラインのショールカラージャケット。そしてミュール。その下の肌膚全てで感じていた汗の不快感が消えていく。
「マリア…あの、これ、」
震える指先からぎゅっと掴んだバインダーとマリアを見比べる。きっと開いて見た方が良い。けれど、開くのは怖い。そんな調子で、クラルはただ眼下のマリアを見つめ立ち尽くした。
クラルは、座るタイミングを完全に逃していた。
「吃驚した?」
自ら企てた悪戯が大成功を納めた子供さながらの瞳でマリアはクラルを見上げた。
胸元が大きく開いた巻きスカートの膝に届くか届かないかの裾からレースが見え隠れしている。
「はい。……まあ…」
クラルは勿論今日はマリアも、バカンス仕様とは言えカジュアルともフォーマルともつかない装いだった。
ドレスコードはスマート・カジュアルよ。
一週間前に受け取ったメールを、クラルは不意に思い出す。
あの時は本当に何処に連れていかれるのか首を傾げた。だってマリアはクラルに、ミステリーツアーだと言って教えてくれなかったのだから。その上で送られてきた指定メールは頭に疑問符を浮かべさせるのに充分だった。
ただ、マリアが旅行の際に利用するホテルは殆どドレスコードが設定されているから然程気にしなかった。
だから今更だけど、強く思う。あの時、コーディネートを考えるより先に、もっと追及すれば良かった。マリアは他に、フォーマルやセミ・フォーマルも持ってくるよう言っていたのに。
「ほら、あんたちょっと前に言っていたじゃない。乗ってみたいって」
心なしか楽しげにマリアは言った。それを聞いたクラルはああと思い出した。そう言われれば言っていた。確かに。言ったけれどそれは、一度きりでしかも、半年前だった気がする。
そう。半年前。半年……だとしたらこの、今の状況を察知出来なかったとしても仕方ないかも。なんて思えてくる。
だってマリアが、プランは内緒よ。と用意したのは決して安くはないだけではなく、キャンセル待ちでも5年先と言われている人気過ぎるプランだった。
半年前なんて…普通は簡単に予約、遂行出来るものじゃない。
ただそこは、きっと十中八九、間違いなく彼女の両親が絡んでいる。セレブリティな娘の親は方や大企業の経営一族、方や美容業界に進出を果たした資産家のご令嬢とまあ、絵に描いたセレブ一家だから。もしかしたら親族の誰かがこの経営母体と交流、或いは出資しているのかもしれない。
だったら5年だろうが10年だろうが、一家……むしろ一族には関係無いのだろう。この、外とは一線を引く快適な待合室と御大層なパンフレットとが提供される客室を取っているが、良い証拠。
ただ、クラルは旅費が気になる。マリアはお嬢様だが、クラルは違う。
「あ。言っとくけど旅費はいらないわ。安心して」
え?と、目を瞬くとマリアは澄まして、でも少し照れ臭そうに、
「ほら…春先に、あんたにはすごく迷惑かけちゃったじゃない?だからいつか、ちゃんとお礼がしたかったのよ」
それを出すなら。クラルもマリアに迷惑をかけた。下手したらマリアとは比べ物にならないくらいの大迷惑を。それなのに………と、友情の美しさに感激したいが、今は、そうも出来ない。
「でも、」
「てゆーか私達の部屋……ママの取引先の人が用意してくれたのよ。目的地で商談があるみたいで……結局ママは会議で直接入りになっちゃったんだけどね。だから正直、お金かかってないのよ」
別世界。クラルは、もう何度目かも知らない単語を脳裏に横切らせた。
「そう言うわけだから、ただ楽しみましょ」
「……はい。ありがとう、ございます」
けれど、クラルが本当に吃驚はしたのはそこじゃなかった。
一瞬クラルの脳裏にある考察が横切り、まさか。とは思ったけれど、マリアの性格からしてそれは無い。恋愛体質だけれど、そこ迄じゃない。と…思う。
「喜んでくれて嬉しいわ」
マリアはクラルの動揺を、感動し過ぎて表に出ていないのだと解釈したらしかった。
その邪気の無さが、クラルとしては居たたまれない。
明るいその顔にクラルはつい吊られて、笑い返してしまう。
クラルは改めて手元を注視した。
バインダー。と言っても金具の無い、ただの二つ折り仕様。牛、否…もしかしたら羊かもしれない。良く鞣された高級素材の皮で包まれているそれはフレンチやイタリアン、中華の店で会計の時にそっと置かれる、あれが大きくなった様な形そのもの。中にはクラルの名前が印字されたチケット一枚と、諸々の諸注意やマナー、室内図が記されたパンフレットが挟まっている。
表紙には金の箔押しで経営母体が提案したモチーフ。下には美しい筆記体の英字で、
『グルメ馬車』
どうしても、そうとしか読めなかった。グルメ馬車。豪華な、鉄道レールの上を走る絢爛豪華な馬車。
くらん。と、目眩を覚えると同時に、おそるおそる顔を上げる。痛みそうになる頭を押し、リップの塗り直しを始めたマリアに尋ねた。
「でも……マリア、ひとつ、聞いても良いかしら」
「なあに?」
「……もしかして、サニーさんとはあの日から……あのままでは、ありませんよね?」
唇に色を置く、その指先がぴくんと止まる。
「……何?それが、なんだって言うの?」
――ああ、やっぱり。
一瞬にして不機嫌を纏ったマリアを前にクラルは肩を落とす。
この様子だと仲直りは当然。そしてきっと、何も聞いていないのは一目瞭然だった。