ショップフロアの中程から、奥へ入った場所に位置するエレベーターホールは横に広く長く、僕等がいるのはその中心だった。
 左右の空間には向かい合わせで12機。更に右の奥にはシャトルが2機。合計26機のエレベーターがある。
 勿論、用途は異っている。
 右は客室がある上階の各フロア以外ノンストップの高層エレベーターで、左は15階迄の各主要階で止まる低層エレベーター。シャトルは最上階のレストランとバンケットフロア以外何処にも停まらない。

 ハイランクの高層ホテルでは良く見かける設備だ。当然、利用客が迷わないように、きちんと案内表示がされている。最上階レストランと客室行きに限っては、エレベーターボーイが常駐している。

 僕は、クラルを抱き留めれない方の手の先で、どっち?と案内板を指し示した。
 取り敢えず大雑把に『レストラン』を目指すならどれに乗っても行ける。けれど当然階数によって店は異なっているし、そもそも僕が目指す場所は始めからひとつだ。

 クラルは僕を見上げた後に案内板へと視線を流し、「そうですね…」考える振りをしてくれた。

「個人的には、左、とお願いしたい所ですが…」

 低層エレベーターが向かうのは15階の、そこ迄値の張らないレストランフロア。普段なら可愛い彼女の意見を尊重してそこでも良い。だが、

「今日は僕にとっても特別な日だって事を忘れないで欲しいな」

 やれやれと言う風に多少大袈裟に僕は言った。
 クラルの片眉が、あら?と動く。

「ココさんにとってもですか?」
「勿論。僕の愛しい彼女が産まれた日だからね。なんなら政府機関に掛け合って祝日にしてもらったっていい。奇跡の女の子が産まれた日だって」

 クラルの声が言葉を重ねる度に笑う。

「奇跡の、ですか?私が?」
「勿論さ。僕にとっての奇跡」
「また、そんな事仰って…」

 くすくすくすと、笑う彼女は人目がある事に恥ずかしそうにしたものの、僕を見上げ直すと、言った。いつも、僕を'仕様の無い方'だと言う表情で、

「分かりました。では、右です」
「よし、行こう」

 僕は彼女の手を取り、笑い返した。

 多少強引に右のエレベーターホールを、抜け、2機のシャトルが横に並んでいるホール迄進んだ。

「右は右でも、右奥なのですね」

 床を叩く革靴とヒールの音に続いて、彼女の楽しそうな忍び笑いが聞こえた。


 僕等がシャトルの前に着くと、行動の先読みをしたボーイが洗礼された動きで呼び込みボタンを押した。
 ぽーん、と僕の真上のエレベーターランプが点る。彼は其れを見送ってまた、壁際に寄り、マネキンの様に立ち続ける。
 鏡の様に磨き上げられた真鍮色のエレベータードア。視線をそこに移すと僕の後ろで、ぽかん。と、直立不動のボーイを見ているクラルが見えた。僕が苦笑すると目の前の彼女が此方を見て、目が合うと少し照れた様子の苦笑い。
 磨き上げられた深いブラウンのそこに映る彼女は、色を交えてセピアに染まっていた。
 其れを見つめた僕はクラルの手を握るタイミングで、セピアの彼女に向かって微笑んだ。クラルは微笑み返してくれるタイミングで、僕の手を握り返した。
 背後の広いエレベーターホールと異なり、飴色の照明で満たされた空間は微かなノスタルジアを誘う。掌に意識を移すと少し高い彼女の体温でそれは汗ばみ初めていた。
 僕は、繋いだ手からクラルを引き寄せ、自然と肩を抱く。目の前の男女も寄り添う。

「不満?」


 ぽーん、と。もう一度、機体上部で灯っていたランプが音を響かせて点滅する。
 扉越しに視線を合わせたまま、クラルは不思議な顔をした。

「右は右でも、こっちの右だから」
「…その事ですか」
「うん。その事」

 ドアが音を立ててスライドした。目の前に金の枠で縁取られた鏡が現れる。視線を下げれば低い位置に、ビロードの、細長い腰掛け。扉と同じ色をした、豪奢な作りの箱。
 マネキンの様に動かなかったボーイが全く無駄の無い仕草で中に入り込んだドアを手で支え、僕達を促した。簡単な礼を述べ(クラルは相変わらず一礼を交えていたけど)中に入るとやっぱり彼は一言の確認の後僕等の代わりにボタンを押し、深く腰を折った礼の姿勢のまま、閉じた扉の向こうに消えた。

 また、セピア越しに彼女と目が合う。動き出した箱の中で、笑う。

「不満なんて、全く有りません」

 ふ。とした声に誘われて、僕はありのままのクラルを見た。クラルは、

「貴方のサプライズ好きは、昔からです」

 それは問いの答えになっているのか。思ったが、僕の片腕の中で僕を見上げ、愛しい者を見る瞳で微笑む彼女に言葉は押し込まれた。

 言葉でなく、仕草でなく、まして行いでもない。それなのに、彼女の言わんとしている事を僕の、耳でなく、目でなく、許容でも無い部分が感じ取った。

 一緒に居たいだろう?僕の中の声が言う。それは、お前もだろ。僕は答える。
 当たり前だ。と、嘲笑われた気がした。オレはお前なんだから。

 牽引の力が肩に掛かる。滑らかに、けれど確実に階を飛び越えて行くシャトル。彼女の苦手な、絨毯の床。6つ星のレストランへ向かうに相応しい装飾が施された壁、クラルの背中を映す鏡。向き合うとクラルは僕を呼んだ。僕は両手でクラルの両肩を捉え、その顔を覗き込み、言った。

「君が嫌なのは、人目だったよね?」

 後頭部の近くで静かに監視する黒い半球体。映らない位置を暗算した僕はその場所迄クラルを誘う。見せないから。そう言えばクラルはもう一度、僕を呼んだ。

 僕はその声と吐息と、少し馴染んだグロス毎。濡れた唇に口づけた。深く呼吸すると甘く優しい香りが入り込んでくる。

 そっと肩に置いていた手を彼女の背中に回す。絹糸と紛う艶やかな髪の、滑らかな感触からフェイクスエードの柔らかい生地を、掌から指先で捉え、奥に隠れた柔肌の輪郭を探り、僕の腕を埋め込む強さで抱き込む。
 重ね合わせたその、小さな唇を柔く食んだら、背をしならせたクラルの柔軟な身体を支配していた強張りが一瞬だけ強くなりそれから、ふ、と力が抜けた。

 1度だけ離し、吐息が絡む距離で囁く。

「クラル……」「ココ…さん。…グロスが、」「後で流せばいい。だから、…もっと」

 引かれ合う力に委ねてもう一度、唇を重ねる。互いの胸に挟まれていた彼女の腕が戸惑いがちに僕の首に絡み指先が掴むように後ろ髪を捉えた時、僕は、行為を少し、深くした。


 人に言うと驚かれるが、僕達は始めからこんな、グラブ・ジャムーン顔負けの関係だった訳じゃない。
 何時好きになった?と聞かれれば、一目惚れだよ。と、何故付き合おうと思った。と聞かれれば、他の男に渡したく無かったんだ。と、臆面も無く言えるが、始めから真実そうだったかなんて曖昧だ。
 過ぎ去ってしまった今、当時の僕が彼女に惹かれた胸の内は、それを経てきたはずの僕でも分からない。

 ただそれでも僕は、クラルに淡い恋心を抱いていたかもしれない。男が異性と仲良くなりたいなんて欲求は突き詰めれば結局ひとつしか無い。でも、どうこうなる気は更々無かった。

 その証拠にかつての僕はかつての彼女に、伝えるべき事を最後まで伝えていなかった。


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