磨き上げられた御影石の床を進み、吹き抜けの2階へと伸びるエスカレーターへ。
 いつもの様にクラルを先に乗せてステップ一段後に続いたら、振り返った彼女が段差分ぐんと近くなった距離で

「この後は、左でしょう?」

 と、指を指し言ったから

「取り敢えず、フロントは素通りする」

 と、視線の上に見えてきたカウンターを指し示し、ジェスチャーを交えて返した。

 エスカレーターを降り、教育の行き届いたフロントスタッフ達の前を横切って、ロビーラウンジの右沿いを真っ直ぐ歩く。暫くすると10段あるかないかの階段が見えてくる。そこを昇りきれば石材の床の上にクリムゾンカラーの絨毯が、行く先に向かって真っ直ぐ打ち込まれたショップフロアへ至った。

 途端、クラルの歩調がぐんと落ちた。
 ついでに、脇の手前を引っ張られる感覚。見れば、彼女の手が僕のジャケットを掴んでいた。

「クラル…?」

 どうかしたのかと尋ねれば、彼女はぱっと手を離してしまいそのまま、何でもありません。と顔の前で手を降る。…何でも無いことないだろう。僕は心で眉を潜める。この子が、あんな、引き留めるように僕の服を掴むなんて先ず無いんだ。されたのは嬉しい。あ、引っ張られたな。と感じてそれが愛しい彼女の手だと知った時の喜びは例え様がない。けれど、先ず、有り得無い行動なんだ。
 だからと言って躓いて咄嗟に、と言う風体でも無かった。

「本当ですよ」

 僕が黙ったままだからだろう。彼女は言葉を繰り返した。「ちょっと…足を取られただけですから。本当に何でも有りません。お気になさらないで…、すみません」気にしないで。とでもお願いするように、笑って言う。

 僕は、確信した。

 真実を隠したがる人間は、大人であれ子供であれ、突発的に良く喋る。

 まあ、それより彼女は、

「クラル…」
「はい」
「もしかして、靴擦れした?」
「いいえ。それはありません」

 クラルは僅かに伏せていた顔を上げてやんわりと否定した。

「そうか、じゃあ…」僕は今考え付いた素振りで「歩き辛いとか?」

 彼女の顔が、核心に触れられた時の表情を見せた。目線をさ迷わせながら、あの。とか。その。とか言葉を繰り返す度に俯いていく。

 そうだ。これだ。行動心理云々とかでなく。それより、クラルは本当に、分かりやすい。

「…うん。分かったよ」

 僕は、苦笑した。



「ココさんから頂いた物が、悪いとかではありません。確かにヒールはあまり履きませんが、サイズは丁度ぴったりでそれに、アンクルのお陰で安定感があります」
「うん」
「全く歩き辛いと言うわけではないのですよ?本当に…」
「ああ。分かってるよ。絨毯だろ」
「…踵が、埋もれるんです」
「それは大変だ」

 僕は、絨毯とヒールの相性の悪さに少々足元が覚束ないクラルを支え歩いた。
 宿泊か或いは買い物客の遠慮無い視線さえ、彼女が僕に寄り添っているシーンを見られて居るのだと思うと、普段の煩わしさは何処へやら。寧ろ誇らしい気分だ。
 クラルの弁解の愛らしさも、一層気持ちを良くしてくれる。

「それなら君が足を取られない様に、確り支えているからね」

 心なしか、声も弾んでいた。
 僕はクラルの肩から身体を支え、クラルは僕に捕まる様にしな垂れ掛かかっている。前者は日常的によくしている。けれど後者は、二人きりでないと彼女はしてくれない。人目の有るところでは精々腕に手を添えてくれるだけなのだ。今僕は、靴を選んでくれた店員に感謝した。このフロアの設計士にはもっと感謝をした。二人にはご意見カードからお礼を送りたい。
 通り過ぎる通行人は指を加えて見てればいい。そして僕の幸福の証人になってくれればいい。

「すみません」
「気にする必要はないよ。何だったかな?君の親友が言っていた…ガールフレンドの特権にもあっただろ?」

 僕の言葉にクラルは目元を染め、吐息づいて笑う。

「……そんな所だけ、気が合うんですから」

 僕は、「もうひとつある」如何にも深刻そうに口を開く。

「どちらも、君の事が凄く好きだ…、いや。そっちは僕の方が優勢だな」

 もう一度、クラルを笑わせた。
 僕の言葉に笑い、腕に体を寄せてくれる彼女と天井の高いフロアをゆっくり歩きながら、中程に位置するエレベーターホール迄僕はクラルを連れていった。


 でも、幸福は其れを比較出来る日常が有るからこそ人は、胸を踊らせる事が出来る。夢の時間は長く続かない。

 僕に彼女を近付けてくれた絨毯の道は、ホール手前で逸れた。

 お陰で、不安定な足場から抜け出したクラルの歩調はそこですっかり元通りになる。重心が僕の腕を掴んでいた手から、卸したてのパンプスに移ったのを見送って、

「ありがとうございました」

 僕を見上げ、微笑むクラルに

「…いいや。君のお陰で僕は、女性が皆、生まれながらにヒールの歩き方を知っている訳じゃないって言葉の素晴らしさを実感出来きたから、」

 言ったがそれから、贈ったのは自分だったと思い出した。即座に謝る僕に、けれどクラルは首を横に振った。

「フラットに甘えていた私の落ち度ですよ。履かなくてはならない時もありますし、これを機に慣れます。慣れてみせます」

 それからカンザスの少女を真似て2回、踵を打ち鳴らす。
 力強いクラルの言葉に続いたその行動は、僕の笑いを誘った。

「殊勝な心掛けだね」


 最近。
 こんな風に茶目っ気のある行動を良く目にする機会が増えたがクラルは、普段の立ち姿で判断すればその通りの、機敏な子だ。
 学生時代、馬術とバレイを嗜み培われたバランス感覚は素晴らしい。きっとその気になればあっと言う間に不安定な足場でも、美しく立ち振る舞うだろう。だって今年、IGO主催のニューイヤーパーティーのダンスタイムで一緒に踊った時の彼女は、イブニングドレス特有の床を引き摺り兼ねない程長い裾に、ダンスパンプスの中でも一番高いヒールを履いていたのに、ステップはそれなりに確りしていた。

「君なら、きっと直ぐ慣れるさ」

 だから気休めでない、本心を口にした。けれども僕は言葉の裏で口に出来ない謝罪を転がした。すまないクラル。本心であっても、本音じゃない。

 だってクラル。この子がヒールの歩みに慣れたらきっと、あんよを覚えた子供の様になるんじゃないだろうか。それか良く、古き良き時代のアメリカ映画に出てくるカップルのオマージュが始まるんじゃなかろうか。いや、でもクラルの事だ。きっと絨毯の上だって難なく歩いてみせれるくらいには成長したとしても、僕の左横を定位置としてくれるだろう。でも、きっと。さっきみたいに重心を寄せてくれることは無くなる。

 僕に、外で体を、寄り添わせてくれなくなる。

「でも。無理しないでくれよ。ヒールに慣れた足特有の病気だってある。…外反母趾は、案外怖いからね」

 僕って小狡い。
 心配しているのはそこじゃないだろ。さっきの幸福の消失だろ。エゴイスト。でもさ。あら、それもそうですね。と。彼女も彼女で素直に聞き届けてくれる。…何事にも聡いくせに。どうしてそこは見抜かないのだろう。信頼されている実感はたまに、僕の悪い所を露見させてちょっと居たたまれなくなるよ。

「…ところで」

 でもだからと言って、彼女に知って欲しい事じゃない。僕は、気持ちを切り替える。

「僕等は、どちらに乗るべきだと思う?」

 クラルを更に抱き寄せて、尋ねた。



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