昔から、クラルは変わらない。
 初めて出会った時から彼女の瞳は虚飾の仮面を通り越した、ありのままの素顔を見てくる。真っ直ぐに僕を見つめて、笑う彼女に、取り繕いも嘘も通用しない。

 情けない事に気付いたのは、随分後だけれど。


 あれから更に数時間後。僕とクラルはホテルグルメのエントランス前に居た。僕の腕を包み込む様に手を添えるクラルがガラス張りのエントランスを見上げて、それから僕を、困った顔で見た。図りましたね。そう、表情だけで問い掛ける。

「ココさん」
「ん?」
「行き先はもしかして…上階の…私達がよく知っている方のレストランでは?」
「さて、行こうか」

 惚けて歩を促したらクラルは肩を落として微笑んだ後、「仕様の無い方」吐息で笑った。
幸福に笑む瞳と同じ輝きで、耳朶からぶら下がった雫型のピアスが光り、揺れた。



 ホテルに行く迄の道すがら。僕は彼女に、何処へ向かって居るのかと聞かれても、秘密だよ。と、行き先を伏せていた。驚いて欲しくてわざと、キッスにも直接へリポートへ向かわせなかった。
 手近な所でキッスと別れて少し歩き、通りに出て直ぐ見える百貨店の前で予約していたタクシーに乗った。タクシーは僕達が乗ると簡単な挨拶と自己紹介の後、直ぐにメーターを付けて発車した。
 クラルは行き先の復唱も無しに(そもそも殆ど知らされずに)動き出した事に困惑を見せた。僕の袖を引き、行き先を告げていない事を尋ねてきたが、代わりに口を開いた運転手の言葉に、彼女はぱっと顔を染めて口を噤んだ。
 笑い皺の深い彼は『行き先は、既にご主人様より承っておりますよ。奥様はご安心して、ご到着迄ゆっくりお寛ぎ下さい』言った。
 バックミラー越しのリップサービスは僕の胸を浮つかせた。
 都会を拠点とした会社契約のドライバーは会話に慣れているだけあって、乗客のツボを心得ている。接客業者特有の目敏さで既婚者の左手に在るべき指輪が今の僕等にはまだ備わっていない事を、彼は見抜いているだろうに。
 ミラー越しに目が合い、僕は喜びの内を見透かされない様、苦笑いをして見せた。

 クラルは彼の言葉に恥じらい、頬を染めていた。

 ついつい沸き上がった悪戯心から耳元で、お顔が真っ赤だよ?可愛い奥様。と囁いたら羞恥で潤んだ叱責の瞳が僕を見上げて、つんと尖らせた唇のまま、つまり無言で、軽くほっぺを抓られた。

 暫く、愛らしい顔はそっぽを向いてしまいつれない態度を取られたが、運転手の苦笑いを受けながら3回謝った所でクラルは喉を鳴らし笑い、許してくれた。(人前でからかうと大概、彼女は少し拗ねる。知らない人が相手なら良いじゃないかと思うが…クラルはどちらにせよ苦手らしい。やり過ぎた時は半日口を効いてくれなかった事があった)僕は安堵と共にそっと、ドライバーの死角でクラルの手を握った。
 その頃にはタクシーがウィンカーを出し、予約の際に告げていたホテルのエントランス前へと流れ着いた。そしてクラルが『…私も、痛い事をしてしまってごめんなさい』と僕に微笑んでくれた時。停車した車体から弾かれる様に開いた扉を、白い詰め襟のドアマンが彼女の背後で支えた。
 クラルは音に反応して振り返った。初老のドライバーが到着を告げる。御陰で僕は、彼女の手からその肩を抱き寄せて額、或は頬に、唇を寄せるタイミングを見失った。


 タクシーの扉を支えてくれたドアマンが、次は僕等の為にエントランスのドアを引く。

「さ、行こうか」

 二人でくぐり抜ける時に僕は自然と彼女をエスコートした。
 多少名残惜しいが腕に添えられていたクラルの手を解き、代わりにそのサテンリボンで飾られた腰に手を回す。吐息を溢して笑っていた彼女は僕を見上げ、ほんのりと染めたほっぺで微笑んだ。

 ぴん、と。背筋を伸ばした詰め襟のスッタフのお辞儀にも、律儀に会釈を返す頭ひとつ半小さな背の歩幅に合わせて僕は歩く。

 少し緊張した面持ちで歩くクラルは、こつこつ、と。ヒールを鳴らしていた。

 その小さな踵が軽やかに蹴り上がる度に翻るスカートの向こう、ストッキングに付いた、ダイヤ擬きのビーズがアンクルの上で、天井のシャンデリアを映して光る。
 こつこつこつと響く、小さくて少し、世話しないコンパス。

 何時だったか。シューズボックスの整理をしながら僕の靴を持ち上げて、自身の顔位は有りそう。と、わざわざ比べて見せて来たクラルについ声を上げて笑ってしまった日を、僕は思い出した。

 あの時の彼女は笑われた事が心外とばかりに目を瞬き、肩を竦めて、靴を置いた。もうおしまいかと油断した僕はその後にひとり黙々と、僕の靴は自分の靴何個分かと横に置いて比べ始めたクラルに、(…何してんの?)(いえ…平均値ではどの位違いがあるのかと思いまして)(平均、値…?)(私、足のサイズは平均的ですから。一足と……この線ですと3分、5分、?あの…ココさん、このラインだと何等分だと思い、…ココさん?)今度は息切れを起こすまで笑わされた。

 ふ、と。思い出し笑いを溢したした口から吐息が漏れる。
 合わせたつもりでも余り有る、僕達はなんて不揃いなのだろう。僕の革靴の音は自然と小さくなる。小さな足の、小さな歩幅もゆっくりとテンポを落とした。

 丁度そこから視線を戻した時、同じタイミングで僕を見上げたクラルと目が合った。

 クラルは、真っ直ぐに微笑んで言った。

「いつも、有り難う御座います」

 何の事だと、今更恍ける関係でもない。

「君と、成る可く長く、一緒に歩いていたいからね」

 僕は抱き締めたい衝動を彼女の腰に添えた手に力を込める事で、クラルに伝えた。



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