あれから1時間後。
 すみません。お待たせ致しました。と、身支度を済ませてリビングに現れた彼女に、早々に支度を総て済ませ、本で退屈を紛らわせていた僕は、大丈夫だよ、の後に続く言葉を見失った。

「如何、でしょう?」

 クラルは扉から一歩入った所で、はにかみながら僕に尋ねる。始めはフロント。それから上半身を捻ってバックスタイル。
 彼女が動く度に器用にコームで纏められたハーフアップから零れた毛先と、ウエストを魅せるサテンのリボン。そして、滑らかで柔らかなフェイクスエードの裾が揺れた。
 大きく開いた襟刳りから覗く首元では、シャンパンゴールドが弾けて光る。

「ココさんの、ご想像通りなら…宜しいのですが」

「想像以上だ」僕は間髪入れず言った。「おかしいな。どうして家にアン王女が居るんだ?君、昨夜路上ベンチで寝ていた?」
 彼女は始め、何を仰っているのかしらと言わんばかりの顔で僕を見ていたけれど、言葉の意味に気付くと、鈴の様に声を震わせ笑った。

「それですと……ココさんが、ジョー・ブラッドレー?」
「君の一生の恋人で居られるなら、それもいいね」

 退屈しのぎの本を目の前のローテーブルに置いて立ち上がったら、クラルは息を整えて言った。

「良いのですか?王女様の休日は、1日限りですよ」

 僕はいつか彼女と見たストーリーを思い返す。そう言えば、あれは想い出だけを残した実らない想いだったな。

「…なるほど。それなら僕は、ココのままでいい」僕が苦笑して答えたらクラルは、「私も、…貴方のクラルのままが良いです」目を細めた自然な微笑みで口を開く。
 僕は、愛おしさを覚えて、近付いた。

「懐かしいね、それ」

 そのまま彼女の腰に手を回し、反対の手の指先で僕を真っ直ぐ見上げるその頬に振れた。クラルはそっと、僕の手の甲に掌を添えて「…一時期、私達の間で流行りましたね」言った。

 嬉しかったんだよ。そう、答える代わりに、僕の口元はごく自然に笑みを刻んだ。

 それは凡そ数年前の、春の終わりに起こった僕等の大喧嘩、最後の日。
 あの時のクラルは、僕の手を取って、ただ僕だけを見つめて、痛みを隠している事を見破らせてくれない程、健やかで眩しい微笑みを見せてすっきりと、言い切った。自分は、僕の、クラルだと。
 その瞳には邂逅の喜びしか無かった。涙を流させ、命を奪いかけた男に対する恐怖も憤りも、まして同情も無かった。分かったんだろう?実感したんだろう?愛を語るには不釣り合いな男だと学習しなかったのか。君がそんなに危機管理能力の低い馬鹿だとは思わなかった。僕の身の内に谺した声は、けれど外に出る事は無かった。クラルの手さえ、振りほどけなかった。

「貴方は、私の名前を呼んで、私がいつもの様に答えると、そうじゃないって顔をなさいました」

 僕の手は、彼女の体温に挟まれる。記憶を辿り、僕の掌に頬を擦り寄せて思い出し笑いを零すクラルの柔らかさを親指でなぞる。嬉しかったんだ。

「…そんな顔してた?」
「はい。していました」
「……記憶に無いな」

 ただ、嬉しかったんだ。愚直で、陰りを持たない君の信頼、その全てを僕に注いでくれているのが。
 姿勢は時に言葉より雄弁に核心に触れ不安を消し去るけれど、全てを識った体から産まれた言葉や行為は時に姿勢より根強く胸の内を救い、記憶に刻まれる。

「だと思います」

 だからあの日僕を仰いで言った君の言葉は、その伸びやかな声には不釣り合いな程強い力を持って僕の心臓に振れた。僕の手を力強く包み込む君の手の震えが、信じられないくらい忙しない血潮が僕の、琴線を震わせた。僕の、

「私だけが知っている、貴方の顔のひとつですから」

 僕だけの、クラル。

「そうか」

 僕は腰を折って、誇らし気に笑うクラルの額に額をくっつけた。パンプスのヒール分近くなった距離で笑う。

「キス。したいな」
「どうぞ?」
「無理だよ」
「何故です?」
「口。グロス塗っただろ」

 彼女は、あら。と、喉を震わせて笑ったまま言った。

「私は構いませんけど?」
「…僕が構うよ。落ちないからね。良い年した男の口が、テカっていたらお笑いだ」

 溜息混じりに呆れ笑ったら、クラルは一層華やいだ声を出して可笑しそうに、喉を鳴らした。僕は暫くその音色に耳を傾けた。


「それよりクラル。実は、こんなのも有ったんだけど」

 彼女の健やかな笑いを堪能した後僕は、今、思い出した。と言う風装って、スラックスのポケットから一対のピアスを取り出した。
 声を止めた彼女の目の前で振り子の様に揺らす。

「折角だし、付けて貰っても良いかな?」

 クラルの目線に合わせて掲げたそれは、首元を飾るネックレスとペアの物だ。
 滑らかなパパイヤ・ホイップの肌と良く馴染む(モバイルに入れてるクラルの写真を見せて見立ててもらった時に教えて貰い、知った)、シャンパンゴールド。
 あらま、と笑う彼女の、承諾を貰って、「今のピアス…折角付けてくれたのに、申し訳ないけど」「構いませんよ」「良かった。…付けてあげるよ」ハーフアップスタイルの御陰で剥き出しになったその、愛らしい耳を飾るジュエリーを取り替えて、こめかみにキスをした。


「うん。よく、似合う。…綺麗だ」

 一歩引き、天辺から爪先迄眺めて溢した感嘆は、自分で思ったよりもうっとりとした物だった。

「有り難う御座います」

 クラルは頬をチークと同じ色に染めて、照れ臭そうに、やっぱり笑った。
 キスしたい衝動と、でもグロスが付くのは勘弁して欲しい男心が胸を鬩いだ。だってあれ、べたべたして取れないんだよな。女性を飾るツールは、男には厳し過ぎる。

 僕から視線を外す事の無いクラルは喉を鳴らして笑って、今日は僕の御陰で笑いっぱなしだと言った。今の笑いが何故溢れたのか容易に察する事が出来たから僕は惚けた風に、それは良い誕生日だね。と返した。彼女は健やかに、本当に。と、笑う。釣られて、僕も笑った。

「それじゃあ、行こうか。…お嬢さん」

 手を伸べたら彼女は目映い笑顔のまま、はい。と、何の躊躇いもない所かとても嬉しそうに、僕の手を取ってくれた。



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