彼女の願いは僕と、誕生日である今日この日をのんびり過ごす事だった。
 だから、その通りにした。
 互いの汗が混じり合った体をまっさらにするシャワータイムはいつもの様に一緒だったけど、アダルティックな事は控えた。クラルの指の代わりにその絹織物を彷彿させる艶やかで美しい髪を洗い、乾かして、ソファーの上で彼女の腰を抱いてお喋りをした。

 彼女はざっくりとした薄いニットのワンピースを着ていた。珍しく剥き出しのまま伸びる足についついムラッときた欲求は、クラルの化粧品をディスプレイさせた戸棚からマニキュアをひとつ取り出して、それをその爪先に塗る作業で昇華させた。
 クラルは僕の手元を見て、「何だか、贅沢」と笑った。

「どうして?」
「美食屋四天王で、人気占い師のココ様に、ペティギュアを塗って頂けるなんて。とても贅沢な気分です」
「そうかもね。贅沢だ」

 僕は膝掛けから覗く足に手を添え、はっきりしたヴィヴィットレッドのネイルを貝殻の様に愛らしい爪へ丁寧に刷毛で塗りながら、答える。

「贅沢ついでにお嬢様。この後直ぐにお茶の準備をする予定ですが…昨日の紙袋を拝借しても宜しいでしょうか?」

 彼女はソファに背を預けたまま一度だけ笑うと、跪く僕に向かい、少し澄ました口調で大仰に答えた。

「ええ。宜しくてよ」
「今日は花茶でございますから、体だけでなく目にも大変宜しいかと」
「それは素敵。ありがとう…、ございます」
「そこは、ありがとう。で良いんじゃないかい?」
「…癖は直ぐに治りません」
「まあ、君らしいが」

 突飛無く始まって終わったゴッコ遊びの会話に、僕達は暫く笑い合った。

 彼女の願いは分かっていた。だから、僕達はソファの上を中心に活動した。
 お八つ時を済ませたら体を寄せ合って、ふたりでひとつの映画を見た。
 ラブシーンで何と為しに男優の台詞を復唱したらクラルは、後に続く女優の台詞を準えてくれた。二人がキスをしたら僕達もその真似をした。少し、そうやって遊んで、このまま二人がベッドシーンを始めたら……僕は自分を抑制出来ないかも。なんて考えていたら次のチャプターでいきなり女優が別れ話を切り出した。咄嗟に僕は片手で、動き始めたクラルの口を塞ぐ。

 映画の中では別れ話が成立する。

 みっともなく追い縋る男を女は一蹴する。男は肩を落として、部屋を出る女を落胆のまま見送った。おい、何でそこで折れるんだ。好きなんだろ。愛しているんだろ。親の障害がなんだ。僕達に比べたら可愛いもんじゃないか。
 思わず顔をしかめたら、掌の中で彼女の唇が笑いを零した。同時に口元を覆っている僕の掌に繋がる腕を、とんとんとん、と揃えた指先で叩く。僕の名前を呼んだか或は、苦しい。と訴えているかの様なリズムだった。僕が「、すまない」と画面からクラルに視線を流し手を離したら、彼女は僕を見上げたまま、困った様に笑った。

「言いませんから」
「…うん。」

 なのに離した手を腰に再び回した途端にクラルは「'私、考えたの。もう私た'む、」「やめてくれ」過ぎ去った女優と同じテンポで台詞を真似ようとした。僕は、次は両手で確りと塞いだ。全く、いたずらっ子め。一体誰の誰の影響だ?
 クラルは仕掛けた悪戯の成功に気を良くして楽しそうだったけど、僕の心境は少し複雑だった。でも僕の溜息を聞き取った彼女が直ぐに、ごめんなさい。とほっぺにキスしてくれたから、まあ、お遊びだし良いかと思った。…我ながら、単純だ。


 映画を見終わって時計を一瞥すれば、丁度いい時間だった。
 閉じていたカーテンを引く。切り立った崖の向こう側から窺える山峰の峰々には沈み始めた太陽が、柔らかいオレンジの縁取りを引いていた。僕は硝子窓に反射する自身の顔と顔を付き合わせて、小さく頷いた。

 そろそろだ。僕はその場から離れる。

 クラルはブルーレイ・ディスクを取り出す為にテレビに近付いていた。丁度良かった。僕は、茶器を片付けて来るよ。と、その場を離れた。


 クラルの願いは、嬉しかった。素直に心に響いて、その中で繰り返す度に胸が温もった。

 彼女しか居ないだろう。僕の中の声が言う。当然だ。僕は答える。クラル・ノースドリッジ。愛し、守り、支えるべき、愛しい女性。今日、ひとつ年を重ねた彼女は出会った頃より髪が伸び、容貌は大人びて、重なり合った年月分、思い返す表情も増えた。

 僕は茶器をシンクに置き、頭の中で散々行ったシュミレートを行動に移す事にした。

 クラルに気付かれない様にリビングに繋がるドアの前を横切る。寝室の、クローゼットを開ける。彼女と一緒に居たいのだろう。僕の中の声が言う。勿論だ。僕は頷いた。



 戻ると彼女は、ソファーの上で膝を抱え、ファッション雑誌を読んでいた。お気に入りのリアルクローズブランドの特集があるらしく、暇が有ると良く眺めている。
 目線を下げればきちんと畳まれた足の先で僕が施したペティギュアが綺麗に光沢を放って、クラルのベージュの肌に良く映えていた。そしてページを支える左手の小指には数年前の春頃、僕の早とちりから起こった喧嘩(と、敢えて言いたい。だって別れ話は出たけど承諾は無かったし、その後の話し合いで元鞘に収まったから…喧嘩、だ)の後に贖罪と約束、更にはお互い名前に引かれて購入したTHE KISSのペアリングが光っていて思わず、頬が緩んだ。
 同じ指に収まっている僕のと同一デザインで、真ん中のラインにメッセージが刻まれている。I would love to be with you。僕は君と、心から一緒に居たい。不変の願いを刻んだリングのお陰か、あの日から僕達の関係は良好だ。

「クラル」

 僕は扉の前からクラルを呼んだ。彼女はこちらを向いて、雑誌を手にしたまま顔を上げた。

「はい。お帰りなさい…どうなさいました?」

 扉の前から動かない僕を訝しく思ったのだろう。クラルはどうして横に来ないのかしらと言う顔をした。僕の口元は、自然に笑みを象った。ああきっと今、締まりのない顔をしているんだろうな。

「いや…ちょっと聞きたくてさ」
「何でしょう?」
「夕飯、どうする?」
「お夕食?」クラルは、雑誌を膝小僧に乗せたまま、唸った「そうですね…どうしましょうか。一緒に作るのも良いですし、外に行くもの…」
「決め兼ねて居るなら、僕から提案があるんだが」
「提案?」
「ああ」
「何でしょう?」
「先ずは、これ」

 僕は、背中に隠していたプレゼントのひとつを、クラルに見える様に翳した。
 真新しい、まだショップのハンガーにビニルカバーが付いたままのワンピース。
 フェイクスエードと言う素材で作られた、ピンクに近いベージュの、その首元には、さっきケースから取り出し掛けた、チェーンの細いネックレスが窓から薄く伸びる夕日を映して、揺れる。彼女の指輪のラインカラーと同じ、シャンパンゴールドのネックレス。クラルは、ぽかん、としていた。その顔のまま、「え?」広げていた雑誌のページを2つ程戻って、じっと見詰めてまたこちらを見て「……そちら、」呟き、瞬きを繰り返す。

「後は、これも」

 僕は構わず、これまた背中に隠していたもうひとつのプレゼントを、もう片方の手で彼女に示した。
 こっちは白に近いベージュの、アンクルが付いたパンプスで、ワンピースと同じブランドシューズだ。
 クラルのお気に入りの、リアルクローズブランド。雑誌に穴がぽっかり空いてしまうんじゃないかという位に見ている洋服。ボーナスが出ないと買う気になれないと、いつかに苦笑していたファッション。
 ネックレスやシューズのコーディネートはクラルと趣味が近そうな店員に協力して貰ったが、ワンピースだけは僕が決めた。きっと、彼女に似合うと。確信した。

「もし、気に入ってくれたならこれを着た君を僕に見せて。それから…ふたりで、食事に行こう」

 クラルは、また数度瞳を瞬かせた後に「あなたは…気障、過ぎます」と言ったけれどその顔は、仕掛けたこっちが十二分に満足出来る位の喜びに満ちて居て。膝を抱えて丸くなってしまった体は嬉しさをどう表現していいのか分からないと言った状態でうずうずとしていた。

「着てくれるかい?」

 尋ねれば彼女は僕を見詰めたまま、大きく、こくり、と頷く。僕が、ほっ。と無意識に安堵を溢したらクラルはきゅっと唇を結んだ、僕が一番好きな笑顔のまま、照れ臭そうに目を細めて眩さの中、微笑んでくれた。



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