それはきっと、クラルからしたらにやりと笑ったように見えたのだろう。
 途端、クラルの顔つきが変わった。

「ココさん……」

 テーブルから身を乗り出して、珍しく天板に肘をくっ付けて、しかしそれは恐怖でも萎縮でもなく、友人の悪戯に乗る様な、そんな顔だった。わくわくとした胸の内がその容貌に映し出されていた。

「毒、人間ですか?」
「ああ、そうさ。例えばこの館の壁に塗られている毒液」

 僕は頷き、顎で真横に有る壁を示し続けた。

「あれは、僕の体液なんだ」
「まあ」
「だから先日君と見たクエンドン。例えバルの外に出たとしても、」
「ココさんだけは、安全と言う訳ですね?」

 僕の言葉をかすめ取り、少し大袈裟に頷く。だから僕も、それに倣った。

「その通りさ。何たって、僕を食べたら命に関わってしまうからね」
「大変!」

 クラルは全く、本気にしていなかった。くすくすと笑って、僕を見上げた。

「それが真実なら蜘蛛男ならぬ、ですね」
「毒男、か……それだとちょっと品が無いかな」
「ミスターにすればよろしいのでは?ミスター……」
「ポイズン?」

 今度は僕が、クラルの台詞を掠め取って返した。

「五十歩百歩だ」
「まあ、残念」

 クラルは、そう芝居調子に肩をすくませて見せてそれから、笑った。和鈴の様に喉を転がし「ココさんは以外とユニークな方ですね」そう言って、本当に楽しそうにしてくれた。

 斯くして。僕の初めての告白は冗談として、受け取られた。それは殆ど、僕の思った通りに、状況は展開された。

「所で、残り時間は後5分だが――折角だ。何か占うかい?」

 僕は、臆病者だった。


 明くる日の別れ際、駅には彼女がこの滞在期間に得た友人達が数名、見送りに訪れていた。
 店主と、いつかに一緒に広場で遊んでいた子供とそして、僕と同じ様に店主のバールで知り合い美術展に誘った、あのティーンエイジャー。

「選別だよ」

 僕は昨日手元に帰って来たばかりの書籍を渡した。始めこそ。頂けません。と動揺を見せたクラルだったけれど僕が引かないと分かると最後に

「ココさんは、困ったお方」

 そう言って、「有り難う御座います」そう囁きながら、彼等にも与えた様に、彼女が親愛の情を込めて僕に包容をしてくれた時僕は、クラルに、伝えるべき事を明確に、伝え忘れていた危険性に気付いた。けれど同時に、伝えなくて良かった。と、思った。
 喉元迄せり上がった言葉は飲み込んだ。僕の話等、この健やかに生を謳歌する彼女には無縁の世界であるべきだ。今は、冗談でだって、口を慎むべきだ。

「貴方に出会えて、本当に良かった」

 耳に触れた感謝の言葉に、身の内が震えた。

「クラルちゃん……」

 ああそうか、これで、最後なんだ。僕は、その時になって気付いた。

 もう昼時に、あのバルへ向かっても彼女は居ない。僕の話に耳を傾けて頷き、真っ直ぐに向き合ってくれる、クラル。猛獣の来訪には真剣な横顔を晒し、防衛策については紅潮した顔を見せて饒舌に、僕に質問ばかりをしていたクラル。約束なんてしていないのに、毎日律儀にあのバルへ通ったのは、彼女との時間が僕にとって特別で、心地良かったからではないだろうか。
 クラル。クラル・ノースドリッジ。連絡を、取る事は出来るだろう。だが、この先再び、会う事は出来ないかもしれない。

 僕は、そっと、クラルの肩を叩いた。

「――元気で。僕も、君と出会えて本当に良かった」

 僕は、戸惑いを――そして、感情を――殺した。鼻先に触れた彼女の髪の柔らかさを、掌が抱いた熱を、今でも覚えている。裂けそうな胸の痛みを、今でも思い出せる。

「はい。ココさんも、お元気で」

 体を離す時に、清潔なソープの香りがした。

「また遊びにおいで」

 僕の手はつい、彼女の頭に伸びた。が、止めた。手を引き、ローブの下に潜ませた。
彼女は、くすくす笑った。僕の眼下で、はい。と、クラルは健康的な笑顔を見せた。口約束にもならない、交わし合いだったが僕達は、

 笑い合った。

 僕は、これで良かったと思った。彼女の中で僕は、旅先で出会った普通のお兄さんとして記憶に残る。それは、その時の人生で一番、幸福な事だ。彼女にとって、そして、僕にとって。少女よ、無知であれ。使いどころは違えども、いつかに目を通した書物の一節が脳裏を掠めた。少女よ、君よ、無知であれ。

「――よい、旅を」

 別れは、名残惜しかった。でも、引き止め方を知らない僕はただ、選別の品に一言と僕のアドレスを添えたカードを挟んだだけ、汽笛を鳴らし石炭の雲を撒く列車を見送った。

 彼女からお礼の言葉が、季節の草花を押した栞と共に届く迄、手紙の書き方すら、分からなかった。



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