僕は何故か、顔を合わせられないと思った。
 クラルのあの笑った顔、何度も見た筈のあの吐息を転がした微笑みを思い返してしまう度に、足は彼女から遠のいた。僕だけに見せていたのではない、あの明朗な笑顔。

 しかしあの時間、クラルはどんな気持ちで居たのだろうか。
 特に明日の約束も無く顔を合わせていた僕等だ。特に、クラルは何も思っていなかったのかもしれない。心配されていた事は後になった知ったが、そこにはきっとそれ以上もそれ以下の感情も無かったと推測した。このまま会う事も無く、気付けば彼女はこの街を立っているのだ。そう、思った。

 それでも、小さな街だ。数日もすればかくれんぼの真似事なんてあっさりと終わってしまう。

 まともに店を開けた翌日、クラルに会った。

 いや、会った、と表すには誤解がある。見かけたんだ、店を閉めた帰り道に。

 僕はその日、昨日の客人が漏らした一言に酷く思い悩んでいた。相談自体は何て事の無い恋愛事だったのだが、僕の心を乱したのはその時にその人が言っていた自身の状況だ。他者に思いを寄せた個人が、当たり前に思い悩む事、その状況。
 いいや、そんな事じゃない。僕が問題視したのはその時、想い人が自分と違う異性と親し気に話をしていた。その状況を目の当たりにしてしまったその時の、相談者が語った心境だ。――ショックだった。と、言っていた。自分以外と楽しそうに会話を弾ませていてその姿に身を引き裂かれる思いを抱いた、と。その言葉を聞いた時僕は、思わず心から頷きかけた。

 ショックだった。

 脳裏に、いつかのクラルを映していた。僕以外の異性に向かって笑っていた、クラル。ふふふ、と、健やかに笑っていた。その時、僕は、相談者と同じ感傷を抱いていた。

 これはやはり、そう言う事なのだろうか。
 恋と言うには余りにも失礼だが、そういう、事なのだろうか。少なくとも僕は彼女にある種特別な好意を、


「――すみません」

 耳が拾ったその声に、僕ははっとして意識を思考から状況へとシフトさせた。クラルちゃんの声だ。気付いたと同時に目が姿を捜した。
 彼女は直ぐに見つかった。僕が居るブロックの直ぐ左に曲がった先の、街頭下にいた。
 時刻は夕食時で、道にはそれなりに多くの人が談笑しながら歩いていたのに、どうしてあんなにも鮮明にクラルの声が拾えたのか今でも不思議に思う。
 僕は咄嗟に身を翻して壁に背を着けた。クラル達から見つからない様に――そう、達だ。クラルは一人じゃなかった。あの、ソバカスが目立つ少年が、クラルの前に立っていた。
 僕の耳に少年の声が届く。どうして?俺の事嫌い? 少年らしい、若さを急いた様な声だった。

「いいえ。とても良い方だとは思っています」

 クラルの返答に、それじゃあ――……。 と、期待の籠った声が被さって来る。今、二人の間に何が起こっているのか、明白だった。

「でも、貴女が望む意味とも違います。お気持ちには応えられません。……すみません」

 少年が、息を飲む気配がした。
 僕は、不謹慎だ。一人の少年の淡い恋が数メートルの距離で幕を閉じたと言うのにその時、とても心が軽くなっていた。

 俺じゃないなら、ココ様?

 だが次の瞬間、心臓が跳ね上がった。

 やっぱ、クラルちゃんも、ココ様に惚れたの?

 何処か恨み調子でしかし、虚を張った快活さで少年の捲し立てが聞こえた。僕の耳は知らずにそば立ち、クラルの言葉を待った。

「……一体、何の話をなさっているのですか?」

 けれど聞こえてきたクラルの声は予想外に訝しんでいて、理解不能な事を言われたと言わんばかりの、ものだった。

「私は、ココさんの事は兄の様だと思いはすれ、そのような形として慕っておりません」

 何故か、目眩がした。

「誤解を招いてしまった様ですが私は、」クラルはここで一拍置きそして力強く「私は今、どなたともその様な関係になるつもりはありません」

 ――僕も、同じ事を思っていた。僕も恋愛を引き離し、最も遠い所においていた。彼女の事を妹のように思っていた。だって年が離れている。7つも違う。当時、クラルはまだティーンエイジャーだった。だから、妹の様だと思っていた。なのに、。

 なのにどうしてだか僕は、聞かなければよかった、早々に立ち去ればよかった、そう、思った。




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