「え?」

 思わず、聞き返した。

「彼……?彼女で、なく?」

 いつもの、還暦の店主が経営するバルのカウンター席だった。
 僕はダージリンのファーストフレッシュを、クラルは確かマサラチャイを飲んでいたと思う。外は、今にも雲が落ちて来るのではないかと言う、曇りだった。6月で、時計はお昼時を指していたが肌寒く、室内には明かりが灯されていた。

「はい」

 クラルは真っ直ぐに僕を見て頷いた。それから少し考えた風に視線を店主へと移して、

「私と同じ年の頃で、確か店長さんのお知り合いの息子さん……でしたよね?」

 クラルの問い掛けにグラスを磨いていていた店主は手を止め、渋々と言った様子で頷く。クラルは困った様子でふふふ、と笑った。僕も苦笑いをして見せたが内心は、何故か穏やかとは言い難かった。どう言う訳か、クラルに裏切られた気分だった。


 あの子の、名誉の為に言うがね――……。

 僕が受けた衝撃からおよそ数十分後。
 そう、前置きをおいて話し始めたのは、店主だった。クラルはその少し前に店を後にしていた。ライブラリに、本を返しに行くと言って。
 あの子、と言う代名詞が何を示しているのか初め、僕は良く分からなかった。視線で問い返す。店主は扉を顎で促す。そこでやっと、今しがた出て行ったクラルだと気付いた。

 お前さんの時と違って、乗り気じゃなかったんだよ。

 僕と、クラル。そしてあの時クラルに声をかけた少年の素性を知っているこそ、彼は僕に話をしてくれた。
 クラルは始め、いや、何度もその誘いを断っていた。と。けれど少年の方がしつこく誘っていたと。どこから聞いたのか僕とのデートを聞いて、それを引き合いにも出していたと。(まあ小さな街だから噂はあっと息を飲む間もなく広まるけれど……そう言う関係でもなかったのに、デートと言う言葉は果たして適切なのだろうか?)ついにはしつこさに負けたクラルが渋々了解して、そのまま強引に約束を取り付けたらしい。
 少年はクラルが言った様にクラルと同じ年で、店主の店に良く配達に来ている駅裏の卸商の息子らしかった。若さだろうな。店主は溜息を漏らしてそして、静かに一部始終を聞いた僕に言った。

 うかうかしてると、とられちまうぞ。

 また何を言い出すんだ!思わず動揺を露にしてしまった僕は心の中で叫んだ。

「だから、僕にそんな気はありませんよ」

 最後の一口で、盛大に咽せた喉がつんと痛かった。

 そう言った帰り際。
 クラルと、その少年を見た。
 さざめ降る雨音のせいで何を話しているかは分からなかったが、広場の噴水の縁で談笑を交わし合う二人は傍目から見ると年若いカップルの様だった。
 あの日と同じ透明の傘をさして立つクラル。その前で身振り手振りで会話をする少年。彼はクラルと同じくらいの背丈で、ソバカスの目立つ子供だった。クラルは腕にいつかの茶色い袋を持っていたから、買い物帰りに偶然会ったと言う所だろう。時折声を潜めて笑うが、その顔は何処か困った風だった。でも、ふふふ、と笑っていた。僕といる時の様に健やかに、柔らかく、ふふふ、と。眼を細めて笑っていた。

 家に帰った。声は掛けなかった。

 自分の食事を作った。

 キッスに一日の労いをした。

 パソコンを立ち上げてメールチェックをした。

 シャワーを浴びた。

 カフェインの含まれない珈琲を入れた。

 日記帳を開いた。
 
 今日の事を書き記していた途中、どす黒い液体が一滴、ページに落ちた。

 翌日が、定休日で良かった。僕は、思った。


 一時的に毒のコントロールを見失った。今ならその理由を明確に解明できる。が、その当時の僕は始めて直面する状態に戸惑い、その原因を、克服したと思っていた気圧の変化による体調不良が再び顔を覗かせたのだと思い込ませた。

 翌々日は店を早仕舞いした。

 感情が先に立つと、人は素直になるタイミングを逃してしまうものだろうか。それとも、それは、僕だけだろうか。
 胸に渦を巻く不快感は間違いなく僕のメンタルの薄弱さを呪ってだろう。そう、思い込んでいた僕は意識的にクラルとの接触を避けた。

――彼女を、巻き込ませる訳にはいかない。

 水瓶に溜めておいたミネラルアクア(ウール火山の麓の森から沸く軟水の液体で、文字通りミネラル分が豊富で、イオン分も含まれた浸透性の高い水)を柄杓ですくって喉を潤す時に過った感情に僕は、思った。
 僕自身の問題にあの、年若い旅行者を巻き込ませてはいけない。と、僕は、自身の問題に酔っていたんだ。思い出すと赤面もので、カッコ悪いと思う。あの時間、僕はこの世界で一番の不自由ものだと思っていた。誰も幸せに出来ない有害な、毒人間。この言葉に酔っていた。
 だがあの時はそんなカッコ付けで良かったと思っている。

 三日後、やっとまともに店を開けた。

 それでも僕の足は、以前のようにバルへは向かなかった。

 



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