僕は自分の事も忘れて、この子に何か出来ないだろうか、と思った。
 バックパッカーだと言うのも、理由にあったのかもしれない。何処かで、これっきりだから。との甘えがあったのだ。だから、折角この場所を選んでくれたのなら出来る限りの快適を提供したいと言う、サーヴィス精神を沸き上がらせてしまったのかもしれない。僕が気に入っているこの街を、この年若い旅行者にも気に入って欲しい。一期一会。その日の出会いをいつか誰かに語る時、自身は幸福だった。そう、感じて欲しいとも。
 その数日後。僕は、彼女に街を案内した。
 土地勘の無い女性ひとりだと行けない路地裏の、昔ながらの花屋や、本屋。物語が潜む小道。ガイドブックには決して載らない世界を案内した。

「ココさんは、とても紳士的な方ですね」

 少し日が傾き始めた道すがら、クラルは僕をそう評価した。

「そうかい?」

 僕がそう返すと、ふふふ、と。軽やかに笑う。

「私、良い方を見分けるのは得意なんです」
「成る程。それは光栄だ」

 僕はそう言って、クラルを広場のベンチに促した。
 そうして、途中で立ち寄ったカフェで買っておいた炭酸の入ったミネラルウォーターを手渡した。猛獣が跋扈する街に、自動販売機なんて気の利いた設備はあって学校や、庁舎の中くらいだ。

「あら。有り難う御座います。お幾らでした?」

 斜め掛けのポシェットから当然の様に財布を取り出した彼女に、僕は苦笑した。

「いらないよ」
「そう言う訳にはいきません」

 クラルは困った様に僕を見上げた。

「いいから」
「いいえ。ココさん」

 クラルは、この時から頑固だった。表情こそ柔らかく微笑んでいたが、頑に、コインを二枚差し出して来た。

「君は学生で、僕は、働く大人だ」

 僕は敢えてそれ無視をして、自分のボトルのキャップを空けた。

「学生は学生らしく。大人に甘えてくれた方が、大人は嬉しいものさ」

 軽く捻れると接合部が離れた。炭酸入りのそれは少しの音を出し、底から気泡を沸き上がらせる。

「……子供扱いを、なさらないで下さい」

 クラルは唇を尖らせて呟いた。
 不満そうな表情で、手に持ったコインを所在なさげにし、やがて、僕がどうしても受け取らないのだと知って、握る。口を尖らせたまま強く、僕を見上げる。

「では。次は、私にご馳走させてくださいね」

 言葉としては尋ねる風だったのに、語調は強い言い切りだった。僕は苦笑して、返した。

「それなら、出世払いでお願いしようかな」

 クラルは頬を膨らませて僕を、失礼な方。と言い、けれど直ぐに、笑った。

「良いでしょう。わかりました。その時は、特別なフルコースをご馳走させて頂きます」

 悪戯っぽさを覗かせたその顔には、僕もつられて笑った。

「楽しみにしているよ」


 クラルはそこで、僕以外に小さな友人を得た。僕達が談笑していた広場でボール遊びをしていた、近所の子供達だ。
 今も、街へ行くとクラルに声をかけてくれる少女や少年は、この時の話が出ると決まって言う。

 ココが、恋人を連れて来たと思ったんだ。

 クラルはその話題にはいつも、はにかみ笑う。――あの頃は、今を想像さえ、していませんでした。
 そう言って少し、照れた顔をする。


 その次は一緒に、隣町の博物館で開催された展覧会へ行った。
 先日の案内のお礼に。と、彼女から誘ってくれた。
 驚く事に僕と彼女は、全く同じ物の前で立ち止まり、全く同じ言葉に惹き付けられていた。閲覧後に入ったカフェテリアではお陰で、話題が尽きなかった。


 ルネサンス時代の芸術が好きと言っていたから、持っていた画集を渡したら喜んでくれるだろうか。

 シャワーでその一日の疲れを落とした日の夜、ふと思って、翌日に、持って行った事もあった。
 初めてクラルを見かけた時、彼女は本を黙読していたから、本が好きなのは語り合わなくても明らかだ。
 クラルは僕の手からそれを受け取ると、その瞳を開いて歓喜した。

「’History of Italian」やや、息を置き「 Renaissance Art ’……」

 表紙に押されたタイトルを声に出して、唇を震わせる。指先でそっと、開く。現れた1枚に、感嘆を漏らす。

「こちらは、コズメ・トゥーラ……でしょうか?」
「恐らくね。春、またはミューズのカリオベ……だったかな。最近、目を通していなかったから、自信はないが」

 あらま。と、彼女は笑う。
 そして、呟いた。

「本当に、お借りしてもよろしいのですか?」
「ああ。勿論さ」

 本音は、プレゼントしたいと思った。一度見たきり、本棚の肥やしになっていた物だ。こんなに喜んでくれるのなら、彼女の元に置かれた方が本も、それこそ本望だろう。でもあの場でそれを言ったら彼女ははっきりと言っただろう。
 頂くことは出来ません。
 すっきりと聞き取り易い、あの発音で。はっきりとした滑舌と柔らかくも意志強い燐光を以て。受け取ろうとしない姿が視えた。

「明日、きちんとお返ししますね」
「そんな急かなくて良いよ。ゆっくり見て、そうだ。もし良かったら君の感想を聞かせてくれ」

 クラルは、分かりました。と面映く答えてくすくす笑った。
 
 知る程に、彼女を好ましいと感じた。
 リンちゃんとはまた違う種類の明朗さは、僕の日々に心地良かった。リンちゃんが夏の日差しだとすれば、クラルちゃんは、春の陽気だろうかそれとも、秋の陽光だろうか。日記を付ける時間、そんな詩人めいた事を考えてしまったロマンシズムに、僕は苦笑した。後の恥になるからと書き留める事はしなかったが、今でもあの時の浮ついた気持ちは鮮明に思い出せる。
 その時の日記には、キッスよりもクラルについてばかり触れている。会えない日は落胆の色が見える。誘うつもりでいた美術展に彼女がもう他の人と行ってしまったと店主から聞いた時は特にそれが顕著だ。
 けれどそのお土産に、彼女がペンをくれた日は、赤面したくなる程僕の文字は踊っている。

 我ながら、単純だ。

 だからだろうか。クラルが共に美術展へ行ったと言う友人が男だったと知った日は、毒のコントロールが難しくなっていた。



|

×