僕のクラルはきっと、知らないだろう。
 今思えばそれは、一目惚れだったのかもしれない。僕はどう言う訳か彼女と、もう少し話がしてみたいと思った。
 何よりクラルは、僕と話す時に多くの人が見せる、何処を見ているのか良く分からない、浮き足立ちの表情を決してしなかった。頬を紅潮させる事も無かった。どろりと粘り着く様な、赤い電磁波を見せる事もなかった。

 僕を、ごく普通に、例えるなら狭いテレヴィジョンの中で回るドラマの、男と女の出会いの様に自然に、迎え入れてくれた。
 16歳の、クラル。庭時代の仲間以外で初めて、僕を対等にしてくれると感じた。
 この事が、一層、彼女の印象を良くさせたのだろうと、今は思う。

 その時の滞在は四週間。目的は、この地域特有の猛獣対策。有る日の有る時刻になるとやって来る猛獣に対して、駆逐する訳でもなく、捕殺する訳でもなくただ、毒液を外壁に塗って過ぎ去る迄人が身を潜めるという風習をとある書籍で知り、興味を抱いたらしい。

「私が暮らす国にも過去、同様の現象がありました。けれど私が……生まれる以前に、駆逐された様です」

 比較が身近にあったと言うのも、行動に移す切っ掛けだったようだ。その違いは民族性なのか、風土の問題なのか。それとも技術力なのか。クラルは調べてみたくなったと言った。
 その言葉を拾った店主が、そいつは喰えたのか?と訊いていた。クラルは、調理はかなり難関だったと伝えられています。と、苦笑いを見せながらミルクを落とした紅茶を一口啜った。
 僕は、猛獣が現れる迄まだ日数がある事を伝えた。

「大分時間が空くが……それまで、どうするんだい?」
「そうですね……」クラルは考えを巡らせて「折角なので、観光がてら色々と見て回ろうと思っています」
「ああ、いいね」

 グルメフォーチュンは僻地だが、中々過ごし易く、視る所も沢山ある。僕はオススメの場所や店、列車で南に一駅進んだ所にはこの地の歴史を飾ってあるミュージアムが有る事を彼女に教えた。
 クラルは、興味深そうに聞いて、手帳に場所のメモを取った。僕がその姿を、好ましく思いながら眺めていると、横から店主が、だが女の子一人じゃ危ないだろうなあ。――と、僕を、その目で冷やかした。

 彼が言わんとしている所を察した僕はでも、知らん顔でティーカップを傾けた。
 その時のクラルは僕の左横で彼に向い、困った様に笑っていた。

 踏み込む気は、なかった。
 無自覚の好意は僕にもっと、彼女との時間を求めさせたが、そう言う、所謂男女の関係に持って行く事に関して僕は、潔癖な程慎重だったからだ。
 それでも僕は、クラルを好ましく感じてしまった。
 昼食時には彼のバルへ足を運び、クラルが居ればその時間一杯を宛てがい、様々な分野や見識について語りあった。

 クラルが孤児だと知ったは、出会った翌日だった。
 あの後も店主は、言葉少なながらも、矢鱈と僕達を良い関係に持って行きたがった。(まだ、クラルは学生にも関わらずだ。御歳80に掛かる彼から見たら、僕等の年の差等さして問題無かったのかもしれない)だから、偶然クラルと出会った帰り道、失礼を詫びた。

「普段は、あんなにおせっかいな人じゃないんだ」
「そうなんですね」

 くすくす笑うクラルは、右手に透明な傘を、左手に食材の入った紙袋を抱いていた。今日は宿のキッチンを使うと言っていた夕飯は、一人分の、僅かな量。それでも彼女の好きな、ラディッシュの葉が袋から覗いていた。(実はクラルには少し、偏食の気がある。注意深く見ていないと、好きな食材を何日も食べ続けている。出会った時は特に、それが顕著だった)
 けれど、僕はそれに気付いたのに、持つよ。とは、言えなかった。
 左手に黒い傘を挿し、右手には、彼女と同じ様に食材の入った袋を腕に抱えていたが、その気になれば持つ事くらいどうってことは無かったのに、言えなかった。

「余程、君を気に入ったらしい」

 傘に、ぼ、ぼ、と。雨粒が落ちていた。僕は、自分の傘から滑る水滴が、彼女を濡らしてしまわない様に少し、右に傾けていた。

「そうなんですか?」

 あら、と言わんばかりの顔でクラルは僕を見上げて、くすくす笑う。

「私には、私よりもココさんの方が、あの方のお気に入りの様に伺えましたよ」

 傾いた透明な傘から、雫が彼女の後ろへ流れていった。
 僕は、カイゼル髭を蓄えた彼の姿を脳裏に思い描いた。一瞬、金色の髪も持つ、育ての親の姿と重なる。

「……お気に入りはお気に入りでも、玩具としての意味合いが強そうじゃないか?まあ、グルメシティに孫がいると言っていたから、僕等をその子に重ねているのかもしれないね」

 あらまと笑った、クラルはそれでも、否定しなかった。
 僕等はそのまま一緒に、歩を進めた。ぬかるむ地面は歩きにくく、いつもより、ぐっと歩幅が狭くなる。空は暗く、路地に立てられた街灯が道を照らしていた。

「……でも、」

 やにわ、彼女が呟いた。

「良い方ですね。祖父とはあのようなものかしら、と、思います」

 僕はふと、湧き出た疑問を彼女に投げ掛けた。

「そう言えば、君のご家族は何をしているんだい?」

 ふふ、と。笑っていた声が、一瞬途切れた。

「……私の、ですか?」

 珍しく、クラルは呟く様に言葉を返した。歩く先を見たまま、続ける。

「……何故です?」

 歩も、僅かに止まったのかもしれない。けれどそれはほんの瞬きの時だったから、その時の僕は違和感だけを感じて、気に留めなかった。

「あの後、君の学校を調べてみたんだ。驚いたよ。グルメ貴族の子女が通う、世界有数の伝統校じゃないか。……まあ、君の佇まいからして、きちんとした教育を受けているみたいだから、どこかの上流階級のお嬢さんだろうと思っていたがね」

 これだけは言いたい。僕に、悪気はなかった。ただ、思った事を言ってしまったんだ。

「それにしても年若い身で、こんな僻地に一人で来るなんて……御両親はさぞ、心配されているじゃないのかい?」

 薄暗い雨に、街は濡れていた。路を照らすオレンジの光も、濡れた様に揺らいで、毒液が塗布された煉瓦の壁にへばりついていた。
 僕等の水を踏む音は、ビニルを打つ水滴の音に紛れているのに、雨を逃がす傘の下で、声だけは内に篭り、響いていた。

「好奇心は悪い事じゃないが、家族を悲しませる事だけはしないようにね」

 クラルの足が、水たまりを踏んだ。
 水滴の跳ね上がるその音を、僕はよく、覚えている。
 惹かれて、クラルを見下ろした。と、一緒に、彼女は足元を蔑ろにして、僕を仰いだ。


「ココさん」

 クラルは今と変わらない、すっきりと柔らかい声で、僕の名前を口にした。僕に向かい、雨影の下で微笑んで、

「私に、家族はおりません」

 それは、ふふ。と、笑い零す時と同じ顔だった。

「学校へは運良く国の援助を賜り、通わせて頂いておりますが……私自身に、歴史はありません」

 僕はこの時、どうして、得意の予見を行わなかったのだろう。

「私は、孤児です」

 僕は、今も後悔している。
 あの時、クラルにとってきっと、言いたくない事を言わせてしまった。と、気付いたのに僕は、クラルの言葉を受け止めて、息を飲むことしか出来なかったんだ。勝手に、彼女は愛情の下で健やかに育った、僕とは真逆の境遇だと思っていたんだ。そんな自分が、恥ずかしかった。

 僕等は、確か、立ち止まったと思う。

「……すまない」

 どうしたら良いか分からないまま頭を下げた僕に、クラルは笑った。

「いいえ。私の方こそ……すみません」

 眉を、下げていた。僕とクラルの距離を遮る雨粒の下で、クラルは少し困惑した様な哀しい瞳で僕を仰いでいた。それが急に、ふふっと、笑を零した。
 僕を見詰めたまま、続けた。

「もう、どうしてか皆さんこのお話を聞くと、そんなお顔をなさるの。私には今更で、些細な事なのに」
「…………」

 よく、分かるよ。そう言いかけた言葉を、けれど不適切だと思って、口をつぐむ。
 何も言えないでいる僕の前で、クラルは尚も笑う。

「――それよりも」少し、声のトーンを上げて「私の佇まいが貴方の目に快く映った事が、嬉しいです」
「そうかい……?」

 僕がそれからやっと出した言葉に、クラルは眉を下げた困り顔のままで、はい。と言い、くすくす笑った。

「ちょっと、湿っぽくなってしまいました」

 荷物を持ち直したのか、彼女の腕の中で紙袋が音を立てた。
 真っ直ぐに、僕を見る。

「雨のせい……ですよね」

 クラルが言ったとおり、僕等が持つ茶色い紙袋は雨の湿気で少しふやけていた。……そうかもね。何とか微笑んで見える表情を作って返せば、僕の胸の高さから僕を仰ぐ小さな彼女は、口元だけで器用に、微笑った。




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