あの日のグルメフォーチュンはレインタウン並みに雨が降り続いていた。
 長雨に土は泥濘、外を歩く度にローブの裾が重く濡れた。壁に塗られている毒液がもし水溶性の物だったら甚大な被害を起こしただろう。現実は、そこもちきんと対策がなされている代物だから、そんな惨事は起こらないが。

 クラルと初めて出会ったのはその時からよくランチに利用していたバールだ。
 昼は軽食を出して夜は酒を提供する一般的な経営形体。25平米程度のこじんまりとした店内にはアルコールと煙草の匂いが壁や床に染み付いていたが、梁の剥き出しになった天井に、ダークブラウンで統一された家具の年季の入り具合から醸される空間は、僕に一種のノスタルジアを体感させた。

 駅前からかなり外れているからか、昼時でも何時も森閑としていた。カウンターや数の少ないテーブル席に疎らと座る客は、全て還暦を向かえた店主の顔馴染みだ。僕は、未だ新参者だった。

「初めまして。クラル・ノースドリッジと申します」

 あの日も、当然の様に人は疎らだった。窓際の、日に焼けてくすんだペーパーホルダーを持つあの小さなテーブル席も空いていた。
 なのに店主は、生家から持ってきたと言うカウベルの、重い音色ときしんだ蝶番の音と一緒にやって来た彼女に、僕の隣を進めた。僕に、若年寄演じるにはまだ早いだろ。と何やら囁き、意味深なウィンクを一つ寄越して。半ば強引に、クラルを座らせた。
 クラルは数日前にグルメフォーチュンにバックパックを背負って訪れた旅行者だった。

「……ココ、だよ」

 木で出来た椅子の上。体毎僕の方を向けたすっきりとした姿勢で、真っ直ぐにクラルは僕を見て挨拶をしてくれた。けれど、僕は笑顔を作って名乗りを返しただけ。ごく自然に握手を求められていたが、それに応えなかった。
 宜しくさえ言わず、手はずっとカウンターの上で組み、名前だけを交わした。

「ココ…さん」

 クラルは一瞬だけ目を見開き、小さく、僕の名前を反芻した。僕に差し出していた手はいつの間にか膝の上で揃えて。でも、きちんと僕を見つめて。

「珍しいかい?」

 僕は言った。

「確かに。男では余りない見ない名前だからね」

 クラルはでも、直ぐに首を横に降り、

「いいえ。そうでは…」

 苦笑しつつ僕に対して申し訳なさそうに言った。

「…つい先日聞いたクラスメイトのお兄様の愛称と、同じでしたので。少し、驚いてしまいました」
「へえ」
「此方に発つ時、その方はお仕事の関係でこの付近にいらっしゃる。と聞いていて……」
「そうなんだね。でも、僕には兄妹が居ない。残念ながらその彼とは別人だ。すまないね」

 この時の僕はただ、笑顔のまま会話を終わらせる言葉を選んでいた。
 後はもうこの時間が続かない様、先に出された紅茶で一息置いたら直ぐ、主人に声を掛けよう。申し訳ないが今日のランチは、持ち帰りにしてくれ。と、考えつつ。
 別に話題に困ってではない。妹は居ないが弟妹の様な奴等は居た。話を広げる事はそこから幾らでも出来ただろう。妹は居ないが妹の様な子は居たよ。とか、君に兄妹は?とか。それか話題を変えて、一人旅と聞いたけど、何処から?とか。けれど僕はその時、そうする気はなかった。
 これはクラルに限った事じゃ無い。誰に対しても、そうだった。今も言える事だが僕には、自発的に新しい人間関係を作る気持ちは更々無いんだ。特に女性は――クラルには一度だけ話した事があるが――過去の諸々の経験から僕は彼女達に対して強い警戒心を抱いていた。僕の意見などそっちのけで、有り得ない事を平気でし出す。それはぶっちゃけ僕にとっては恐怖以外の何物でもない。
 だから僕はいつもの様に適当に、失礼の無い程度に会話を切り上げる気でいた。人の良い店主のちょっとしたお節介に辟易しつつ、でもそこがあの人の良い所なんだよなあ。と思いつつ。言い終えたタイミングで少し前に出された、温かな紅茶が満たされたティーカップを持ち上げる。吐き出した台詞を思い返し、巧くいけばこれで会話は終わるだろう。と。
 だがクラルは直ぐにあっけらかんと、

「応えられたら尚更、驚いてしまいます」

 会話を返して来た。くすくす笑いながら、そして、それもそうだ。と、僕が言うより先に、

「その方のお兄様は、御年50歳ですから」

 僕は一瞬、耳を疑った。
 持ち上げたティーカップが僕の口元で止まる。
 僕だけじゃない。カウンターの端で常連客と談笑していた店主達の声も一瞬途切れたから店内中の誰もが思っただろう。今、この子なんて言った?

「……50歳?」
「はい。50歳です」

 その時、僕は初めて彼女に意識を向けたかもしれない。佇まい。背格好。顔の造形。雰囲気そして、電磁波。50歳の兄を持つ人のクラスメイトだと言う彼女……まさか予想外に年上の女性かと思ったが、それにしては何処を見ても若さがある。

「……お兄さん、だよね?父親でなく…」
「はい。私のではありませんけれど、お兄様です」

 僕の態度とは正反対に、彼女ははっきり答え、ゆったりと頷く。

「分かってる。君の、クラスメイトの……お兄さんだろ?でもそれにしては…年が離れ過ぎてやしないかい?だって見たところ君は……」

 見た目は確かに、大人びた印象を与える方だろう。流れる電磁波も穏やかで、きっと実年齢より落ち着いているタイプだ。だって肌や顔の造形は……若い。首に皺も無い。脳裏に一瞬リンちゃんが浮かんだからきっと、その位だろうと思った。
 だが若そうだと言っても、女性に年の話をしても良いだろうか?あ、そうか。きっと彼女は既に大学課程に進んでいるカレッジ生で、その友人の方が年配の人なんだろう、

「そうですね。私も、彼女もGCSEを受けたばかりです」

 GCSEとは彼女の国が導入している義務教育修了の資格試験だ。一般的な受験年齢は16歳。だとしたら…やっぱりおかしい。兄じゃない。それは、父親程の年の差だ。
 考えをあぐねかせていると不意に彼女が少し喉を震わせた。真っ直ぐに僕を見る。あ、と思った。もしかして…嘘か?そんな相は視えなかったがまさか、騙されたのか、

「お兄様は、お父様の連れ子だそうです」
「ああ…成る程、」

 結果はそんな、意地の悪いものではなかった。そのクラスメイトが幼い頃に、母親が再婚して出来た兄だと言う。それなら納得だ。連れ子なら…いや、逆に両親の年齢差が気になった。が、そこからは人様の家庭事情だ。ランチの小話だろうがなんだろうが膨らませるのは失礼だ。愛の形は人それぞれだろうから。

「…驚いたよ」

 僕は飲み損ねていた紅茶を一口啜った。彼女は真横で、アイスティーをかき混ぜながら相槌を打つ。

「私も。初めて聞いた時は驚きました」

 細いストローで縦に長いグラスの中身をカラカラカラと、クラッシュアイスとオレンジ色の水色を絡ませるように、涼やかな音を彼女は奏でる。

「ですから…貴方が仮にその方だとしたら、私は、次は度肝を抜かれてしまいます」

 僕は不意に、彼女に目を向けた。彼女も僕に目を向けていたから自然、視線が絡んだ。クラルは一瞬だけ反応を見せたが、それでも僕をじっと見てやがてごく自然に笑った。

「最近の50歳はとってもお若いと…貴方は、20代後半くらいでしょうか?」

 穏やかに、けれどすっきりとした発音だった。行儀良く背を伸ばした体はカウンターに、手はコースターに置かれた細長いグラスへと添えて、顔だけを僕に向けて。僅かに、顎を引いて。
 僕は思わず、くすりと笑った。

「…君の目に僕がどう映ったか知らないが、これでも未だ23だよ」

 クラルは僕の呟きに数度目を瞬かせた後、喉を震わせた。あら。と、まあ、とで一息置いて、

「それは失礼致しました。私、間違えてしまいましたね」
「ま、それはいいさ。…さして変わらない気もする」
「でも折角教えて頂いたので、改めて。貴方の事は"23歳のココさん"。と、覚え直します」
「そう、だね。そうして貰えるなら嬉しいよ。何事も、正しく認識する事は大切だ。僕と愛称が同名だと言う50歳の男の話、とかね。ついでに僕の名前は愛称でなく、本名さ」

 肩を竦め態と芝居がかった調子でそう返せばクラルは、くすくすと笑いを溢し出した。健やかに、澄んだ声で。何がそんなに可笑しいんだい。と聞けばクラルは、だってと息を継ぎ、僕がユニークな人だからと言った。そうかな。初めて言われたよ。と惚けて返した僕もやがて彼女につられ、同じ様に笑っていた。

 店主がそんな僕等の事を後に、やっぱ若いもん同士、気が合うんだな。と言ってきたが、それとは違う。と、僕だけは知っている。
 そう。違うんだ。意気投合出来たのは僕等の年幅が彼等に比べて近かったからじゃない。
 僕があの時、クラルから感じたのは嬉しいサプライズを食らった時に似た奇妙な安堵感と穏やかな解放感。そして、不思議と懐かしい、居心地の良さだった。

 何より僕は僕を真っ直ぐに見つめて目を逸らす事無くただ自然と笑ったクラルを前にした時、感じたんだ。
 この子に対して警戒心を持つ事はきっととても、意味の無い行為だ。と。





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