数ヶ月前の話だ。始め、バラしたのは誰だ。と、僕は電話口で溜息を吐いた。

『ね?ココ、マジで?マジ!?』
「……本当だよ」

 観念して肯定すれば、甲高い声で通話相手はきゃーー!と黄色い悲鳴を上げる。キーンと、壊れた音がスピーカーから出た。電子音としての域を越えた周波数の不快感に、思わず耳から離す。

「…リンちゃん、声がでかいよ」
『あ、ごめーんココ』

 何ともカジュアルなその声に、僕はもう一度溜息を吐いた。それでもリンちゃんは興奮気味に捲し立てる。
 確か、三ヶ月前だ。

『でもさ、二人って付き合って何年だっけ?三年?四年?つーか五年?あれ?そう思うと遅い位?ココ達だったらもっと早くしちゃうと思ってたし!』

 矢継ぎ早。脳裏にきっと相応しいだろう形容動詞が浮かぶ。


「まあ、色々あったからね」
『あ。そっか……でもとうとうココとクラル、結婚かー』

 大きな声で"結婚"の四文字を口にするから、思わず僕は苦笑した。

「気が早いよ。それに未だ、言うって決めただけで…クラルは知らない事さ。結果は分からない」
『そんなん大丈夫だし!だってクラルならこないだ食堂で……』
「リンちゃん?」
『何でも無いし!兎に角絶対大丈夫!』

 何かを言いかけて止めた、その内容は少し気になる物が有ったが、あまり検索するとこちらが喰われそうになるから止めた。リンちゃんの押しの強さは庭時代で学習済みだ。僕等四人の中で、それが通用しないのはトリコくらいだった。思い出すと少しの感慨深さが込み上げて来る。サニーの妹なのに、まるで僕等全員の妹の様に後を付いて回っていたリンちゃん。
 何十年も昔の話だ。当時の僕はきっと、あの慣れ親しんだ庭からあんな形で飛び出す事も、飛び出した先で恋に落ちて、その相手と結婚を考える事なんて想像もしていなかっただろう。寿退社をして行く研究員達だっていたから、いつか誰かと…。と言う考えが無かった訳じゃないが、庭を後にする時の僕はこの体質に成って特に、想像どころか有り得ないと諦めていた。
 受け入れてくれる人が居るだろう事は想像出来た。青年期を迎えた時に僅かに居た研究所の所員達の中には、僕の体質を理解している筈なのに、構わない。関係無い。と言って来る女性は少なからず居たから。(お陰で一時期、自分の容姿が嫌いになった)でも、僕がそれを受け入れる事が無い限り、相手の空回りで終わる。そもそも新しい人間関係を求める自分なんて想像だにしなかったし、出来なかった。付かず離れずで良い。つーか常に他人と居る生活なんて面倒くさい。
と、思っていた時期は確かに有ったのに……人生とは数奇だ。

「ありがとう。でも……本当に彼女には言わないでくれよ?」

取り敢えず念は押す。

『分かってるし!クラルには絶対バレない様にするし!』
「信じてるよ」
『大丈夫だって。だってクラルの周りだとウチとー、お兄ちゃん、小松さん…は、滅多に会わないか。あ、あとはマリア!そんだけしか知らないし!』
「…………」

 おい。マジかよ。僕は、頭を抱えた。
 それ、バレるのは時間の問題じゃないのか。寄りにも寄ってクラルの幼なじみと今、下手したら僕より長い時間を一緒に居るリンちゃんとか……。いや、リンちゃんやサニー、小松君は良い。もう僕から話しているから。それにサニーは暫く第一ビオトープにいない事も知っている。でも、どうしてマリアちゃんまで知っているんだ?僕はまだ、何も言っていないぞ。
 これだと勘のいいクラルの事だ、仮にリンちゃん達が何かを言わないにしろ、何かしらもう勘付いているかもしれない。あ、でもクラルだったら何か勘付いたとしても時折見せるあの気付いていない振りで……って、それもなんか虚しい。やっぱ気付いたりしないでくれ。そこだけは鈍感で居てくれ。
 都合の良い祈りを送ってしまう僕とは対象的に、リンちゃんは向こう側で一人興奮している。僕とクラルの事をいつのまにか自分とトリコに置き換えて、いつものように空想している様だった。次第にヒートアップして行く内容に、声に出ているよ。と、教えてあげるべきなのか否か、毎回の事ながら迷ってしまうが。

「それよりリンちゃん。あの件だが……」

 毎回の事ながら、流す。

『ん?ああ!うん。そーゆーことならウチはオッケーだし!楽しそうだし〜!』

 心の底からの声に何故か安堵の吐息を溢し、電話越しに微笑んだ。ごく、自然に。

「ありがとう。そう言ってくれて嬉しいよ」

 僕は断線したモバイルを充電ボードに置き、手元に置いてあるスケジュール帳の記入していた、リンちゃんの名前に丸を付けた。
 ページには彼女の他にも名前がある。僕とクラルとに共通した友人で、クラルが大切にしている彼、彼女達。上からアプローチをかけた名前は残り一人だと言うのに横にはまだ丸印しか付けていない。しかも最後の人物はリンちゃん曰くもう知っていると言う。
 僕は、つい苦笑した。人差し指と中指の間で、ペンは踊る。


 脳裏に幾年か前のクラルの姿が過る。

 吐息笑いが静かに零れた。

 年月を経た記憶は何とも都合が良くて、断片的だ。あの時の、言うべき事を言わなかった―…つーか言えなかった臆病で打算的な僕と、無知で今より初々しさが有ったクラル。クラルの――困った様子、嬉しい様子、はにかんだ様子、そしてあの日の――笑顔ばかりが過ぎる。

 クラル・ノースドリッジ。初めて会ったときの彼女はバックパッカーで、次にペンフレンドで、そして最後は、IGO研究員だった。



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