テーブル迄の道のり、クラルはリンちゃんの背中をじっと見ていた。両隣はワインセラーの中が伺える硝子貼りで、クラルと僕が映っている。クラルは少し、眉間に皺が寄り始めているからクラルを知らない人が見たらリンちゃんを睨んでいる様に見えるだろう。
でも僕は知っている。クラルの小さな頭が徐々に傾き始めたから、ああ、これは熟考しているんだな。と。それはこの数年間で知った、今、目に見えるクラルの癖の二つの内一つだ。
もう一つの癖は、この、決して根を上げない頑固な所。
研究員と言う職種も影響しているのかもしれないが、こうなった彼女は自分から降参を口にして、僕に答えを聞かない。何が何でも自力で探り当てようとするんだ。
クラルはとても、意志が強いから。
僕は時にそれに辟易として、多くは救われている。
「クラル」
「はい」
呼ぶと、いつもの様に僕を見上げてくれるけれど。
「何でしょう?」
「また、眉間に皺が寄っているよ」
言う時にはクラルの顔は華やいでいて、皺なんて無かったけれど。そう指摘すると少し目を見開いて次いで少し頬を赤らめて、咄嗟に額に手を添える。恥じらいのまま唇を尖らせる。それでまた、眉間が寄る。
「……あまり、ご覧に成らないで下さい」
気丈に吐き出される声は表情に相応しく困惑していたけれど、どこか不機嫌だ。
「ココさんの真意を……リンちゃんがどうしていらっしゃるのか考えているんですから」
「……もしかして嬉しくない?」
ぱっと目を見開いたクラルが僕を真っ直ぐに見上げる。
「嬉しい、嬉しくないではなく……ただ、訳がわからなくて……」
「簡単さ。今日は、君の好きなもので囲んであげたかった」
答えなんて、いつも単純だ。
「今日は君の特別な日だからね。料理、音楽、ワインだけじゃなく全て、クラルが大好きなもので溢れさせたくて……セッティングしたんだ。クラルの為に」
クラルは僕の白状を受けて目を瞬かせていた。ぽかん。と、少し惚けたがやがて何かに気付いたようにワンピースとアクセサリーに触れる。
「そう。それも」
クラルが何か言うより早く僕は言った。
「君が何度も紙面を眺めていたの、知っていたよ」
クラルは少し動揺していた。赤い顔で「そんな……」とか、「嘘、」とか呟いてはやがて僕を見上げ、僕はやっぱり気障だと口を尖らせる。
僕は、一つ笑いを溢してそれから、クラルの腰に回した手からクラルを抱き寄せた。
「クラル、可愛い」
そっと耳打ちをする。
クラルは一度前を歩くリンちゃんを伺った。聞こえてやしないかと心配したのだろう。けれどリンちゃんは前を行くばかりだから、彼女は胸を撫で下ろす。
そんな姿にもう一度笑いを零せば、クラルは僕を見てちょっと口を尖らせた。
「また、そんな事を仰って……」
「本当だ。クラルは可愛い。頭から爪先迄、いつまで経っても僕好み」
「ココさん」
僕が遠慮無く口説くから、クラルはずっとリンちゃんを伺っている。
でも僕は知っている。
リンちゃんは今、ボク達を誘導しながらも頭の中でこの後の流れを復習している最中だ。僕等に意識を向けていない。猪突猛進な彼女は一つに集中すると周りを余り見ない。
何より僕等はお互いに声を顰めているし、店内にはボリュームを絞ったジャズのリストが流れているから、囁きなら尚の事、聞こえる筈なんて無いだろう。
だから僕は悠々と言えた。
「ねえ。クラル」
「…何ですか?」
「テーブルへ着く前に、もう一度キスしたいんだけど」
クラルは驚いて顔を上げる。声は落としているがはっきりと、
「いけません」
「今ならバレないよ。大丈夫」
「駄目です」
「ぽっぺだけでも良いんだ。許してくれ」
「……先程、致したばかりでしょう?今は我慢なさって下さい」
もう少し押してみたかった。さっきはさっき。今は今だ。けれど、困惑の中に僕を諌める調子が見えて来たから僕は素直に肩を落とした。
「……そうか。残念だな」
それはきっと、態とらしい行動に映ったのかもしれない。
クラルは呆れたとばかりに眉を下げ、肩を竦ませて笑う。
「今回は諦めるよ。何せ今日は、君の為の日だからね」
一体何処がお気に召したのか分からない。けれど、そう付け加えたら彼女はくすくすと笑った。
健やかに笑うクラルの声はとても気持ちいい。
「もう、」
と言って
「ココさんはいつまで経っても、……仕様の無い方ですね」
と、柔らかく笑む。そうかな?と言うと、はい。と言って、やっぱり笑う。それに、僕の胸は熱されて絆されて、溶けていく。
しかし駄目元だったが、いざ叶わないとなると、味わった口惜しさは本物だ。それこそ、それはそれ、これはこれ。仕様の無い男だと思っているなら付き合ってくれる位は良いんじゃないか。と、微かに甘えた心が顔を出す。
クラルが駄目だと言うならそれこそ仕様の無い事だが…だが、しかし…そんな事を頭の中で旋回しつつ、前を見た。丁度ホール手前の角をリンちゃんが曲がる所だった。大きな花瓶に生けられた豪華な花束を背景に一瞬だけ僕等を見て、後少し。とでも言う様に、にっと笑って先を指差してそのまま角の向こうへ消える。
と、急にクラルが立ち止まった。
後数歩で角へと進む距離で。一歩を踏み出した時に気付いたから危うく置いて行きかけた。
クラルの手が僕の袖を引く。
「……クラル?」
また床にヒールを取られたとかだろうか。けれどここのは大理石だから…もしかして靴擦れを起こしてしまったのか?訝しみながら顔伺うために目線を下げた。
クラルは、少し気恥ずかし気に僕を見上げていた。僕のスーツの肩口を握り、チークとは違うピンクに頬を染めている彼女に一瞬、心臓が跳ねる。僕の目の前でルージュの乗った唇がきゅう、と真一文字に結ばれた。
「どうしたんだい?」
反射的に尋ねた声はきっと上擦っていただろう。と、急にクラルが今度は、自分に寄せる様に僕の腕を引く。
「…少し、耳を貸して頂けませんか?」
「……こう?」
蚊の鳴くような声の願いのままに身を屈めると、クラルが僕の耳の後ろに手を添えた。僕のピアスに触れたのかカフスと繋がっているチェーンの細い音と一緒に、
「今は、これで…」
何が?と思う間もなく、頬に触れた柔らかい感触と、何かを拭った親指の温かさを感じた。一瞬だけクラルの香りが強くなる。髪に付けられた香油と混ざった、甘い香り。あ、ヴァニラローズだ。と気付いて軈て僕は直ぐに、クラルがしてくれた事の解へ至った。クラルを見る。彼女は少し頬を紅潮させて照れ臭そうに微笑う。
「…ありがとうございます」
「クラルー?ココー?」
僕等を呼んで、リンちゃんがコーナーから顔を覗かせた。後に続かないから心配したのだろう。
姿を現したリンちゃんは初め、僕を見上げて訝しみ、そしてクラルへと目線を合わせて小首を傾げる。
「何?なんかあったし?」
「あ、え……ええ。ちょっと、ココさんのカフスが取れかけていらしたから、お直ししていたの」
「……ふーん」
「……すまないね。もう、大丈夫だよ」
咄嗟にクラルが言った嘘に便乗したが、口をツンと突き出し僕を見上げるリンちゃんの眉根は訝しげに寄っている。それだけじゃなさそうだけど。と、顔から物語っているのは一目瞭然だ。
それも、僕を見てそんな顔をするから内心少し焦りを感じた。ちょっと待て僕、今どんな顔に成ってるんだ?取り敢えず毒は滲んでないようだが……。心無しか笑いはぎこちなく、耳が赤い様な気がする。
「ま、いいし。それより早く来るし」
「…ああ」
「はい。リンちゃん」
再び歩き出したリンちゃんへと続く手前で一度、クラルを横目で見下ろす。
クラルも同じタイミングで、ちらりと僕を見上げたから目が合った。合った途端少し照れ臭そうに、でも悪戯っぽく笑って僕に体を寄せて背伸びをする。
「やっぱり。少し、恥ずかしいですね」
声を顰めて、囁く。……その顔に、声は、反則だろ。彼女はたまに、こう言う事をするから僕はいつも思う。でも、
「……もう少しリンちゃんが気付くのが遅かったら君に、キスをお返しが出来たのにな」
こんな事を耳打ちしてクラルの忍び笑いを誘った僕も、大概なのかもしれない。