「うん。僕もそう読めるよ」
「ココさん?」
「大丈夫。仕掛けたの僕だから。」
「ココさん…」
「僕等は入れるよ」
「…そう言う事でなくて」
「だって、クラルのお願いだろ?」
「私がいつ、」
「僕と二人でのんびり過ごしたいって」
クラルの口は、僕を見上げたまま閉ざされた。それを良い事に僕は畳み掛ける。
「赤の他人とじゃ、のんびりどころじゃないだろ?」
「それでしたら、何時もの様に…個室でも……」
「常に傍にギャルソンやソムリエが御用聞きで控えているから、結局、のんびり所じゃない。それに、人の気配は無くならない」
僕はクラルを見た。クラルは、ぽかんと惚けた顔で僕を見上げている。それから少し、何かを思い至って眉を寄せた。その表情の変化が可笑しくて、僕は忍び笑いを零した。
だって、クラルは、それだったら家ででも…と顔に、見えない文字を浮かび上がらせているんだ。
「…家じゃ味気ない」
僕は息を整えて言い切った。
「特別な日と時を演出するのに、家じゃ余りにも平凡過ぎる。それにこう言う日じゃないとクラルは僕に何もさせてくれない」
「そんな事は…」
「少し前。思いっきり遠慮したのは何処のお嬢さんだったかな?」
僕がばっさり言うと、クラルはぐ、っと息を飲んだ。それから、だってとか、あれは…とか。言いにくそうに頬を染めたそんな顔で彼女は、少し唇を尖らせる。初デートした日だって立派な記念日なのに。クラルは以外と、そう言う所が淡白と言うか、大雑把だ。(始めは不安を抱きもしたがその分僕がマメになれば良い事だと、最近やっと思い始めた。)
「さっきも言ったが、今日は僕にとっても大切な日だ」
未だ訝し続けるクラルの手を取り、僕の顔の近く迄持ってきて言葉を繋いだ。
「クラル、君は僕の事どう思っているんだい?」
「どう…とは、」
掌に迎え入れた4本の華奢な指先が緩く僕の手を握り返し、残された親指も触れ合う頃に彼女は、少し染まった頬で言葉を濁した。
僕等以外に誰も居ない。誰も聞き耳を…多分、立てていない。なのにクラルは言葉を作らない。
「…大切?」言葉を隠すならこちらだって「それ以上です」
…して、やられた。
「貴方の事は、それ以上に…想っています」
深い、東洋のコントラストが色を称え、僕を真っ直ぐに見ていた。思考の隙さえ伺わせないその声はクラルの本心からの物だと知っている。
僕は事前に言葉に置き換えていた算段を声に乗せる前に、この計画は失敗したと理解した。クラルは、
「貴方の大切なお嬢さんも、貴方が何より大切で…大好き」
クラルは、面映い表情と声のまま僕の計画を、きっと無意識のまま回避した。
「私にとっても貴方は、奇跡の人です」
僕は暫く声を忘れた。
クラルの手を握り持つ右手と彼女の姿を映す両目以外の感覚を全て捨てた。
僕は、クラルの口から僕の事が大切だと。ただその一言を言わせたかった。それなら君の大切な僕を蔑ろにしないでくれ。とか何とか、ユーモアでクラルを笑わせてそのまま、レストランへ連れて行く気だった。それがまさかだ。否、考えが浅かったと言うべきか、クラルの持つ意外性を忘れていたと言うべきか。
後に続く時を呑み込んでしまったのかと錯覚する、長い一秒だった。照れ笑う彼女。染まる頬。うっすらと生える産毛が旬の時期に味わう桃の様な黄金色に輝いている。
目映く瑞々しい一瞬を堪能した僕は、捨てた物忘れていた物をもう一度拾い上げ、
「…二度も起こった奇跡は、奇跡とは呼べないね」
自然と微笑んだ唇で、言った。
「僕達は、それよりずっと、特別だ」
言葉締めにクラルの手の甲に恭しく口付ける。
張りの有る皮膚が唇の下でぴくりと跳ね上がり、僕の名前を呼ぶ声で彼女は僕を嗜めた。ココさん。……何?…もう。僕が恍けて返すと彼女は笑う。のびのびと清々しい笑声に僕はありのまま言った。
「行こうか、クラル」
「はい。ココさん」
手を引いて彼女の腰を抱き、直線上奥に構える繊細なカッティングが施された蝶貝色の扉へと向かう、短い距離をエスコートした。
「そう言えば今日は君が喜んでくれそうな余興を用意したんだ」
「…余興、ですか?」
クラルは僕を見上げ、単語を繰り返した。僕は短く、うん。と肯定する。彼女は少し考えてから、
「何でしょうか?」
「さて何だろう」
「まさか…クラシックの生演奏とか仰いませんよね?」
「ああ、それも良かったな。チャイコフスキー。それかモーリス・ラヴェル。…お望みなら用意してもらおうか?」
「いえ。いいえ。違うのなら結構です。お気遣い無く」
如何にも本気に聞こえたのだろう。クラルはジェスチャーを交えてきっぱりと遠慮した。それからこれ以上下手な想像は言えないとばかりに口をつぐんでしまったが、興味は逸れないらしく「…でも、何かしら?」ぽつりと声を溢した。
「…考えてご覧。君なら、直ぐ気付くよ」
大きく開いた扉を潜る時、僕は悪戯っぽく笑ってクラルに言った。クラルはつんと尖らせた唇に手を添えて、何でしょう…。と本当に考えてくれた。華やいだ想像に思考を落とすクラルの腰を抱き寄せながら僕は喉を震わせ笑って、カウンターで僕等を待っていてくれたフロアチーフと思しき男に到着を告げた。
彼は恭しく礼をすると確認の後、席へご案内致します。と、ベルの音を一押し響かせる。ホール奥へ僕等の到着を伝える。その視線の先より、快活な声が近付くヒールの足音と重ねて僕等の名前を呼んだ。
「クラル!ココ!」
この場にそぐうかと言えばそうとは言い難い声量に僕は苦笑したが、クラルはその声に呼ばれるや否や弾かれた様に、顔を上げた。