「結婚しよう」

 僕は目の前の、自分に向かって言った。

 冷たくのっぺりとした鏡の中の僕は苦虫を噛み潰した様な顔をしてそれから、溜息を吐く。
 目蓋を閉じて頭を垂れた。視界は一瞬だけ暗くなる。
 目を開けると目の前には洗面台の渕を掴む両手が見えた。左手の小指にはシルバーの真ん中に黒いラインが入った、クラルのリングとペアの物が収まっている。

 本当はフェイクだとしても僕は、薬指で番になるリングが欲しかった。

 けれどそれは生涯唯一の特別な物だと畏まってしまったクラルを前に僕は、それなら成る可く意味の近い物をと調べ、店頭に足を運んだ。このデザインはどうだろう。この言葉の意味よりこの言葉が良い。あれでもない。これでもない。そもそも小指用だと僕のサイズが無いな。等と接客応対に当たってくれた店員を巻き込んだが、結局はクラルと二人で決めた。
 問題だったサイズは僕の肩書きを知った企業の、懇意に甘えた。折角だから細工師にも無理を聞いてもらった。クラルは苦笑いしていたけど僕が、これで世界に二つとないものになったね。と言ったら、そうですね。と笑ってくれた。微笑み合って、カウンターの影で指を絡ませ合った。

 心から、一緒に居たい。

 不変の願いが刻まれたリング。言葉の裏には細工師に彫って貰ったクラルの名前が入っている。当然クラルの指輪の裏には、僕の名前が有る。
 季節が巡るその歳月の深さを表す様に、輝かしいシルバーは何時しか落ち着きを持ち、そこに触れる皮膚には鼠色の痕が色濃く残り始めた。浮ついているだけだった想いがしっとりと肌の奥へ刻まれて、この身体の一部として機能している様に。

「I would love to be with…」

 僕はリングに刻まれている言葉を口ずさんだ。
 僕は、君と、心から一緒に居たい。交わし合った願いは過ごし合う時間が重なる程、欲張りになっている。深く浸透していく程、僅かな別れさえ惜しむ。
 僕はまた、目を瞑る。空輸便で家に届けられた指輪の箱を開いたクラルを思い出す。見て、顔を綻ばせて、全くちぐはぐな大きさに笑い合ってそれから、あの子は僕の指輪を取り出した。ココさん。と、いつもの様に僕を呼んでくれた。
 未だ、胸に傷跡を持って、オキシドールの匂いを纏っていたクラル。

 下唇を噛みしめる。歯に、少し粘着質な味を感じた。

「………」

 僕はもう一度水で唇を洗った。忘れかけていた。僕がここに来た理由ってこれじゃん。クラルの口に塗られていたグロス。皮がベトベトと変にくっついて引き攣られる感覚にいやはや、女性の忍耐強さを改めて実感する。
 さっきから洗っても洗っても落ちるどころか、伸びていくだけだとは全く辟易だ。女性用化粧品は相変わらず、かなり粘着質だと思う。

「…落ちねぇ」

 静かなクラシックが流れる清掃と清潔が行き届いたトイレの中で、僕は悪態と共にもう一度溜息を吐いた。もう一度鏡を覗く。
 クラルの唇をより一層魅力的に魅せていたグロスリップには、小さなラメが入っていた。御陰で僕の口も輝いている。これじゃ何を言っても格好がつかない。
 全くしまった。失敗した。後悔先に立たずとはこの事だ。以前も同じ事を考えた気がするが…僕って成長が無いのか。

 ……それにしたって、いい加減出ないとヤバいな。

 腕時計を確認する。8時、10分前。時間が迫っている。遅れる訳にはいかない。
何より、余り長居するとクラルが心配する。

 僕は前髪を掻き揚げ、もう一度下唇を噛んだ。最終手段だ。仕方ない。

 エレベーター内の長い長いキスで覚えた味を思い出し、(……オクチルドデカノール、水添ポリデセン…やっぱ、入ってるのか…それなら、)分解を促す液体を生成した。こう言う時だけ、自分の欠点が利点に思えるから人の感情は都合がいい。

 液が行き渡ったのを確認し、センサー式の蛇口から水を出して漱いだ。今度はあっさり取れた。僕は安堵と共にハンカチで口と手を拭いた。


「お帰りなさい。…取れましたか?」

 化粧室と書かれたプレートの近くに、クラルはモバイル片手に立っていた。半年程前に買い換えた、ターコイズカラーのラバーに守られたスマートフォン。僕が姿を表すと彼女はそれにロックをかけてクラッチの中に仕舞い尋ねる。僕は肩を竦ませて答える。


「何とかね。待たせてごめん。…メールかい?」
「はい。リンちゃんと、マリアに」

 一瞬、心臓が跳ねた。
 クラルを視る。色を反転させた視界から微かに流れる彼女の電磁波は平常時と変わりなく、緩やかにその輪郭の周りを流れている。

「ココさん?」
「いや」

 僕は視界を戻して小さく安堵した。良かった。…段取りをバラされた訳では無いらしい。

「相変わらずの仲良しトリオだと思ってね」

 苦笑しながら言った僕の言葉にクラルが笑う。

「トリオって…」
「三人組だろ。君と、リンちゃんと、マリアちゃん…間違っていないと思うが」
「そう、ですね。」

 彼女は肩を震わせていた。僕、何かおかしな事言ったか?笑い続ける彼女を見下ろしたまま、少し訝しみ頭を掻いていたら息を整えたクラルがぽつりと

「あ、ジェネレーションギャップですね」
「何?」
「いえ。何でもありません」

 ちょっと、聞き捨てならなかったが、「所で、ココさん」改まった姿勢と声で僕を見上げた彼女が発言権を取った。
 僕が、何。と答える前に、人差し指が彼女の奥に控えて居るレストランの扉の、その横に立てられたボードを指し示す。

「気のせいでしょうか?先程から何度見ても、」澄ました声が呆れ笑って文字を復唱する「貸し切り。と、読めるのですが」

 僕は素直に頷いた。



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