ラララ | ナノ

ラララ


 頭の後ろを鈍器で殴られた様な衝撃だった。一瞬、目の前がブラックアウトしかける。リンはただココに謝り続ける。


『ごめん、ごめんココ……ごめんなさい……。ウチが、守んなきゃ、いけないの、に…うち、』


 ココの脳裏にやっと、数秒前のリンの言葉が届き始めた。クラルが意識不明の重体。リンは近くに居たのに間に合わなかった。猛獣が檻を突き破って傍に居たクラルを、。


 ――やめろ、


 聞きたくなかった。でも、ココの喉は詰まって何も言えなかった。
 今にも皮膚が破れてしまいそうな痛みを全身に感じたまま、膝から崩れ落ちる。モバイルがラグに滑り落ちる。嘘だ。うそだうそだ、嘘だ。乱雑に前髪を掻き揚げた。嘘だ。嘘だろだって、。
 動揺が首筋から頬を赤黒く染める。

 ココは眼が乾き始めてやっと瞬きを思い出した。眼球を潤すその時無意識に背後に、意識を寄越す。

 亡霊がいる。

 亡霊は、ココの背中にきっと寄りかかっている。体温は無い。心音も無い。掌や体の柔らかく甘い感触も無い。でもココが意気消沈とした時、或いは腹の収まりが悪い時クラルは何かを察してかよく、ココに寄り添ってくれた。何も訊かず腰に手を回してぴったりと。頬を背中にくっ付ける。目が合えば柔らかく微笑むクラルに『お茶を淹れましょうか?』『何か召し上がりますか?』訊かれてもココはそれより先にクラルを腕の中に入れた。
 その時の機嫌は決して良くはないのに不思議と、後のココは笑っていた。触れ合いには心をほだされた。

 だからきっと、記憶の亡霊はあのクラルと同じ様にココに接している。此処に居る。
 ココ、…ココ?スピーカから呼ぶ声を辿って、のろい動作でココはモバイルを再び、耳に当てた。すまない。との前置きも忘れて、


「容態は?」


 ココ自身が聞いても恐ろしい程に冷えた声が口から出た。声を、実際に出すのは久しぶりだった。ああ、僕ってこんな声してたんだ。すーすーと風通りの良い頭の片隅が思う。結構、低いんだな。でも自分の声は内にも籠る分、周りが聞くより少し低く聞こえるらしい。ふと、ココは思い出して、それじゃあクラルに自分の声はどう聞こえていたのだろう。と、思ってしまった。
 僕は、クラルの声好きだな。すっきりとして落ち着いた話し方も、柔らかい仕草も。
 声と感情が、切り離されていた。まるで撹拌し過ぎて分離した生クリームの様に。明確に。

 ――不味い。ココは気付いて振り払う。
 電話の向こうで小さくリンが息を飲む。鼻声が怖々とココを呼ぶ。


『ココ?』
「彼女の、容態は?」


 リンは、え?と聞き返す。
 何処で電話しているのだろう。ココは少し耳をそばだてた。でも、何も聞こえて来ない。聞こえて来るのは部屋で唯一動く、時計の針の音だけだった。……医療棟じゃないのか?ココの中は自分でも分からないまま、けれど、冷静だった。クラルが、重体。重傷でなく、重体。確か意味は生命の危機に瀕する程の傷を受けて且つ、意識が無い。だったっけ。
 それはダイニングでニュースを聞いている感覚に似ていた。リンの言葉の繰り返しがまるで能面顔のキャスターが発信した単調な情報の様で、ココの中では現実と結ばれ無い。



『クラル、は直ぐ、運ばれて……今、処置室、で…』


 聞きたいのは容態であって現状じゃない。ココは苛立ちに一層肌を染める。輪郭から滴った体液が膝上を握る拳に落ちて皮膚を滑りやがて、その下のジーンズ繊維をぶすぶすと熔解する。


「初見した医者は?なんて言った?」


 それは自分でも分かる程、鋭角的な声だった。向こう側でリンが息を飲む気配を寄越したからきっと、誰が聞いても明らかなのかもしれない。時計の音が自棄に部屋に響いている。


『い、医者?、いしゃ、は』


 駄目だ。ココは嘆息を漏らした。リンちゃん、パニックになっている。相手が動揺しているからだろう。ココ自身は酷く穏やかだった。前髪をくしゃりと握る。ココの溜息を感じ取ってまた、ひっと息を詰めたリンにココは、


「リンちゃん、落ち着いて」
『こ、ココ……』


 優しい声色で言った。


「……僕に、出来る事は無いから」
『え?』


 リンが声を無くしたのが伝わる。構わず、ココは畳み掛ける。


「所長が居るだろ?」


 恐らく、サニーもいる。けれどココは敢えてその名前を言わず、


「身近な人に助けを求めてくれ。僕には、どうしようも出来ない」


 我ながらなんて冷たい言葉が出るのだろう。ココは吐息だけで笑った。それは冷徹色を滲ませてでも、取りように寄っては、嘲笑だった。


「それじゃあ」


 断線ボタンに指を置く。通話を切る瞬間、待って。と、リンが引き止める。


『ココ、こっちに、……来ない、し?』


 ココは無言のまま、通話を終わらせた。



 ココには、今の電話の内容が理解出来ない。クラルが死ぬ。
 ――それは有り得ない。ココは一笑に伏した。有り得ない。

 だって僕はもう、クラルから離れたから。有り得るわけがないんだ。

 ぼと、ぼと。こめかみから滲む、劇薬となった体液で服を汚す。赤と紫とが混じった重い液体は繊維を萎縮させ黒い服により黒い痕を増やす。揮発して、大気を汚す。

 ココは、完全に制御を見失っていた。
 自分さえ離れればクラルは絶対的に安全で平穏なのだと言う妄想に取り憑かれていた。


 まあ、酷い。


 亡霊がどこかで笑う。ココが意地悪をした後にはよく、クラルがそう言って笑っていた事をココは思い出す。
 フラッシュバックと共に赤や紫の体液が、ベージュの肌の奥に消えていく。それはこの僅か2年で獲得された不随意運動だった。本来緩やかに行われる進化を促す細胞の恩恵はココの精神に呼応していた。彼女を、クラルを包容で傷付けないように(劇薬には皮膚を壊死させ、肉を陥没させるものがある)、キスで苦しめないように(神経毒は呼吸を、下手をしたら視力を自由を奪う)、眠りの間に息の根を止めてしまわないように(例えば火山性ガス。吐き気を感じた頃にはもう手遅れ。苦しみを感じる間もない)。
 クラルと可能な限り長く居続けられるように。

 大気はココ自身の呼吸でやがて元に戻っていく。この場にはいない恋人の為。代わりに亡霊が笑う。ココさん。ココの名前を呼び、顔を綻ばせる。上機嫌に、くすくすと。頬を赤らめ目を細め、口を開く。……今、触れても良いですか?

 ――どうして、今見る記憶がそれなんだ。

 ココは下唇を噛んだ。
 亡霊の存在を問いかけの理由を分からないまま、憎々しげに、毒が潜んだ体を持て余した。





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