−Entrée−

 クラルは重厚な扉をノックした。数秒おいて、はーい。と間延びした声が返ってくる。それを合図に金色のノブを押して、入室の礼を尽くす。


「お呼びですか、リン所長」


 IGO第一ビオトープ。四方を海洋に挟まれた国際グルメ機関のお膝元。深紅のビロードのカーペットがブラウンの壁材と調和する空間の、大きな一枚窓の前に位置するデスク。


「めっちゃ呼んだし」


 その、座席の上で元猛獣使いだったリンが恨めしくクラルを睨みつける。クラルはつい、苦笑した。あらあら。


「あらあら。じゃ、ねーし」


 言うなり、ラップトップに突っ伏した。


「もういや!承認作業ばっかだし、全然へらねーし!」


 突っ伏すなりじたばたと手足をせわしなく動かす。その様子にクラルはまた、あらあら。と、けれど先ほどよりも呆れて零した。これは、確かに大事ですこと。


「すみません、チーフ」


 扉付近にいたリンの側近が申し訳なさげに耳打ちをする。その声には、構いませんよ。と、ゆったりと返し、「それより30分ほど……所長と二人にさせて頂けませんか?」とも続けた。
 リンの耳がぴくんと反応する。
 側近は、承知いたしました。ごちそう様です。と、敬礼をした後、扉をくぐって廊下へと消える。クラルは改めてリンへ向き直った。そのままデスクへと近づき、うつぶせたままのリンの肩に手を置く。


「リンちゃん」


 そっと、呼び方を変えて


「お疲れ様。休憩、しましょうか」


 少し、間を置いて


「ココさんから。グルメ界はブルーグリル直送、6ツ貝パティシエのドルチェを頂いたの。一緒に、召し上がりませんか?」
「……食べるー…」


 クラルが差し出した誘惑にくぐもった声で頷くリンの左手で、精巧なリングが陽光を反射させる。

 度重なる天変地異の終着から一年余り。土壌を枯渇させた災害も復興し、IGOや旧美食會、何より美食屋四天王や小松シェフ達の働きかけもあって食の流通も安定してきた。


「まじ、クラル。またうちのサポートしてほしーし」


 所長室横に併設されたサンルーム。太陽光が空間を優しく満たす中、クラルはリンの前にティーカップを差し出し、うーん……と、唸った。


「それは……難しいでしょうねえ」


 真っ白なカップに、美しい琥珀の液体を注ぐ。自身の手前に置いたカップも同様に。清涼感の或るミントと、ゆったりとしたカモミールの香りが辺りに落ちる。頃合いを見計らって流れを切り、ポットを中央に置いた。


「ひーどーいー」


 本当に酷い。何でそんな事言うし。と、言わんばかりの顔で眉を下げるリンにクラルは肩を竦ませる。


「行っている業務に差異がありすぎて……私ではもう、経験不足でしょう」


 ね?と、笑顔で念を押す。それにリンはまたうーっと唸って、据えた眼差しを送る。クラルは苦笑して続ける。


「それに本当は、いくら元部下と言っても、一介の研究室職員がおいそれとこちらに来てはいけないのよ?」


 そしてそっと、ティーカップを持ち上げて、


「……私は、もうリンちゃんの直属じゃ、ないのだもの」


 その声は、思っていたよりも感傷が滲んでいた。リンがふと、視線を落とす。クラルはカップのエッジに唇を寄せ、リンが所長に抜擢された日を思い出した。

 グルメフェスをきっかけに起こった食の世界恐慌。当然、職員だったクラルも奔走した。
 生態の要とも言える土壌が汚染されたのだ。植物は何をしても、それこそ遺伝子操作を施しても、光培養に切り替えても、育成され無かったと専門チームが肩を落とした。(後で判明した事だが、水質も汚染されていた。)
 生態学において生産者と言われる草木が絶えれば必然、それを養分として生きる消費者も途絶える。その連鎖は連綿としてやがて、調教していた食材獣に出荷命令が出始め、クラルが所属していた研究室のチームも解体せざる得ない所へ追い込まれた。
 未曾有の大飢饉を目の前にして、予算が下りづらくなったのだ。そもそも研究に必要な猛獣類が消えていく為、成果が出しにくい所じゃない。

 騒がしかったコロシアムも閑散とし、どこを歩いても聞こえていた猛獣の嘶きも、セントラルブースの談話室で繰り広げられた意見交換もぽつぽつと途絶えて来た。
 その折りに、会長の訃報が全職員へ通達された。
 同時にマンサムが会長へ就任し、リンが所長へと昇格した。

 クラルは、がらんどうになったケースを暫く見詰めたその夜、リンの部屋で彼女の昇進を祝いその後に、懇願した。
 ――リンちゃん、私。リンちゃんの就任式が終わったら、別のビオトープへ転属しようと思うの。実は、室長から紹介状を頂いていて……ずっと、迷っていたのですが……。
 コロシアムは閉鎖して、自身が携わる猛獣達は出荷され尽くした。研究室も結局、解体された。けれど全ての機能が停止した訳じゃない。必要と判断された研究室や開発局は動いていた。そこのアソシエイト業務であれば席がある。バイオテクノロジーの研究室も、植物遺伝子組み換えチームなら稼働していた。
 それはクラルが望んでいることだし? と、リンに聞き返されれば黙ってしまった研究分野だったけれど、その時はNOと言っていられなかった。
 クラルは、忙しくなりたかった。忙しなく、心ない人の言葉なんて全く気にならない位、がむしゃらになりたかった。

 リンは暫く、クラルを見詰めていた。けれどそっと頷いて、――それなら明日うちからハゲに、申告しとくし。と、呟いた。
 コロシアムで、研究棟で、ぶつけどころの無い焦燥をクラルへと発散している存在にリンが気付いた、当日の夜の事だった。

 だからかも知れない。その数日後、リンやマンサムがクラルへと改めて提示した次席は、アソシエイトではあれど、在宅勤務でしかも、前例のないポストだった。クラルは正直面食らった。これ、職権乱用とか依怙贔屓とか、言わないかしら、と。思ったけれど書面に認められていた条件を読み込んだ時彼女は、初めに受けていたオファーを断る事に決めた。それでも、あれもこれもと2人から与えられた業務端末には、目を丸くした。
 やがてクラルを迎えに来た彼女の夫は、驚いたよね。と、笑った。そうして続けた。暫くビジネスでも、パートナーだね。よろしく。


「ちえー。クラルいてくれたらまじ助かるのになあ。安心して仕事任せられるしー」


 ふと、響いた声に意識を呼び戻す。――いけない、私ったら。クラルは瞬きの後、リンの言葉を耳の奥へ取り込んでカップをソーサーに置いた。
 紅茶は半分程になっていたけれど、まだ継ぎ足す気はなかった。


「お褒めいただき光悦至極と言いたいですが……リンちゃん、私に業務を放り投げてトリコさんの所へ行きたいだけでしょう?」
「あ、バレた?」
「あの時の激務、忘れません……」


 クラルはテーブルに視線を落とし、今は遠い、リンの下で働いていた時代を懐かしんだ。リンはトリコにそれはつよい想いを寄せて居たから、彼に何かあったとか入島したとかの情報を聞き付けるや直ぐ、飛び出して行った。
 後処理を担ったのは他でもない。クラルや、当時の同僚達だ。


「や!それは悪かったしー!でも今は話が別って言うか!折角夫婦なのに!トリコ、ハント行っちゃうし!帰ったと思ったら、うちが仕事ですれ違うし……ストレスたまるし」


 眉間に皺を寄せたまま、リンは紅茶を二度三度と息を吹きかけた後、啜る。クラルは、それはそれは、と微かなため息を溢した。
 グルメ界直送ドルチェは、少し前に完食していた。信じられない程、むしろ紅茶で口を直すのも実は憚れる程、美味しかった。


「トリコさんと言えば」


 ふと、クラルはリンの憂鬱から話題を変えた。


「本当に、平和になりましたね」


 目線をガラス窓へと移して、広大な海原を眺める。
 沖合に銀色の波が立っている。その奥で、潮が吹き上がった。鯨が悠然と、尾を翻す。数年前迄、信じられなかった光景に目を細め、心の中でも繰り返す。
 本当に、平和になった。
 険しい顔を見せていたリンの顔も、柔らかくなる。


「そりゃあ、なんたってトリコ達だし」


 クラルの視線の先を追って、得意げに笑う。


「うちの旦那様、本当最高だし」
「あら、」


 その言葉に、クラルはちょっと方眉を上げた。にしし、とこちらへ向けて笑うリンに向き直って、負けじと口角を上げる。ついでに気持ち身を乗り出す。


「それを仰ったら私の旦那様だって。本当に、最高ですよ」


 暫くそのまま見詰め合って、ふと、2人同時に声を上げて笑った。そして更に暫く置いて、急にリンが溜め息を吐き出した。
 それは重く、深く、そのままま、机に突っ伏してしまう。


「リンちゃん……?」


 クラルは少し戸惑った。今さっき迄大笑いをしていたのに、急な変わり身で頭を抱えている。


「どうしたの?」


 言ってクラルは思った。もしかしたら、お加減が悪いのかしら。そう言えば年が明けてからずっと忙しい忙しいと、仰っていたわ。月を跨いだら楽になるかもとも言っていたけど……そんな様子もないですし。
 クラルは考えた。けれど、リンの言葉に、思い直した。


「クラルー……」
「なあに?」
「クラルは、今年のバレンタイン……どうするし?」
「え?」


 バレンタイン? 声に出さず、心の中で反芻する。あ、そう言えばもうそんな時期ね。とも、思った。


「どうしたの……いきなり」
「だって!」


 でもどうしていきなり……それで肩を落とすのかしら。クラルは首をかしげる。だってクラルが知る限り、このイベントのときのリンは嬉しそうだった。こんなに落胆していなかった。
 その時、リンが叫び続けた。


「うち等の旦那、美食屋四天王だし!」
「……ええ」
「うちはトリコ!クラルは、ココ!」
「……はい」


 改めて言われると、と言うか叫ばれると、なんだか気恥ずかしい。


「グルメ界で活躍できちゃう猛者で!人生のフルコースにアカシアのメニュー入ってっし……!」
「ええ。リンちゃんの式で頂いたフルコース、とても美味しかった、」
「だから……!」


 リンの声に、クラルはちょっと肩を跳ね上がらせた。そして、あ。と、気付いた。それと同時にリンが、


「バレンタインスイーツ、何作ったら良いかわっかんないしー!」
「……そうね」


 気付けばクラルは血の気を引かせた。ああ、もう。そうだわ。確かに、リンちゃんの仰る通り。
 そっと横目で、ケーキが入っていたシェルモデルのグルメケースを見る。
 信じられない程と言うか、口に含んだだけで幸福感が増して舌から飲み下す喉元まで、その甘さで癒してくれたドルチェ。ショコラが使われたムース・オ・ポワール。
 グルメ界の食材をふんだんに使った期間限定のチョコレートスイーツ。あれだけの美味しさで、6ツ貝だった。10段階評価の、6。


「トリコの舌……絶対前よりうーーーんと、肥えてるし……」
「そう、ね……」


 あれを、クラルに渡してくれたのはココだった。
 丁度昨日の夕方、グルメ界のショートハントから帰って来たクラルの伴侶。帰る間際に寄ったらしいエリア6の文明内にあると言うスイーツ専門店のドルチェを、6ツ貝ながら中々に美味しいケーキだから良かったら明日リンちゃんと食べな。と、渡された時はただ喜びしかなかったけれど、実食してしまった今、心が戦慄した。

 あの味が、ココには中々と評するテイストなのだとしたら、それを超える腕をクラルは持っていない。



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