夜闇に咲く閃光の花


 皆で花火を見に行きたいと、甘露寺が言い出したのは数日前のことである。幼い頃は、朱夏になれば両親に連れられて見物に行った記憶が僅かに残っている。だが、俺達兄弟に様々な年中行事を体験させてくれた名前さんとは、思い返せば一緒に花火を見たことはなかったように思う。
 頃来は、鬼殺隊での位が上がったこともあり任務に追われる毎日であった。千寿郎は勿論のこと、名前さんや甘露寺とゆっくり過ごす時間が殆どとれていなかったことを考えると、一時の夏の風物詩を楽しむ余裕も必要ではないかと思い始めた。
 そんなわけで甘露寺の申し出を快諾した俺は、喜びを隠せない様子の千寿郎と一緒に縁側に腰掛けて、彼女達の支度を待っている。天を仰げば、燃えるような夕日は山の影に身を隠し、空は暮色に包まれている。

「師範、千寿郎君。えへへ、お待たせしました」

 甘露寺が名前さんの手を引いて、屋敷の奥からひょっこりと顔を出す。黄白色の生地に丸みを帯びた大きめの梅花があしらわれた柔らかい印象を与える浴衣は、愛らしい彼女によく似合っていた。
 一方その後ろでは、恥ずかしそうにしながら名前さんが俯いている。名前さんの浴衣は甘露寺とは対照的で、落ち着いた紺桔梗の生地に白菊が控えめに散りばめられていた。いつも以上に丁寧に結い上げられた髪容のせいか、衿から覗く白い頸が至極扇情的であり、俺は思わずごくりと喉を鳴らす。

「蜜璃さんが是非にと仰ってくださったので…私は普段のお着物で良かったのですが」

「何言ってるんですか!名前さんとってもお似合いです!ね、師範」

「ええ。お二人共とてもお似合いです。ね、兄上」

「ん、ああ。そうだな。よく似合っている」

 我ながら素っ気ない返事になってしまったことは分かっていた。不自然に視線を逸らしてしまったことも、彼女にいらぬ不快感を与えたかもしれない。名前さんが少し寂しそうに瞼を伏せたのを視界の端に捉えたが、これ以上彼女を直視することは難しかった。
 ずっと抑制し続けた自分の猛々しい雄の部分が顔を出し、いとも簡単に俺の理性を攫っていこうとする。
―余計なことは考えるな。集中しろ。
 克己心でなんとか己を抑え込み、しんがりで既に歩き始めた3人の後を追う。楽しそうに千寿郎と名前さんの手を引く甘露寺をよそに、千寿郎は不安そうに様子が明らかにおかしいだろう俺を見る。大丈夫だと微笑を浮かべて頷くと、安心したように目を細める。ぐいぐいと甘露寺に腕を引かれ眉尻を下げて苦笑する名前さんの後ろ姿を、やはり俺は直視出来なかった。

*

「ひぇ〜、かなり人が多いですね」

「うむ、そうだな。この花火大会は歴史も古くかなりの規模だと聞く。皆、考えることは同じなのだろう。千寿郎、逸れないように気をつけろ」

「は、はいっ!」

 河岸近くの打ち上げ場所まで来た俺達は、あまりの人の多さに圧倒する。暗闇の中で鈍色に光る大河には大きな橋がかけられており、絶好の観賞場所である橋梁の上には既に多くの人が溢れていた。少しでも気を抜けばあっという間に逸れてしまいそうだ。

「それなら、千寿郎君は私と手を繋ぎましょう!あ、橋の向こうに素敵な飴細工のお店が出ています。…皆さん、お腹空きませんか」

「は、はい!私もお腹が空きました」

「そうよねそうよね!あ、和菓子屋さんも出店を出してるみたい!急がないと無くなっちゃうかも〜」
 
 そう言うと甘露寺は、千寿郎の手を引いてすいすいと人並みをよけあっという間に橋の向こう側へ行ってしまった。俺の気持ちにとっくに気がついていた彼女なりに、気を利かせてくれたのだろうか。確かに、任務も多忙を極めている頃来は名前さんと二人きりで話す時間を中々作ることは出来ず、有り難いことではあったのだが。今日の俺にはかなりの忍耐力と精神力が必要になりそうだ。
 刹那そんなことを考えていたが、名前さんの小さな悲鳴にはっとする。ぞろぞろと前から波のように押し寄せて来た集団の一人と接触してしまったようである。彼女の細い肩はいとも簡単に壊れてしまいそうで、俺は考える間もなく自然と彼女の背中に手を回し、ぐっと己に引き寄せた。

「この辺りは人が多いです。もう少し歩いて、人通りが少ない所へ行きましょう」

「そ、そうですね。…いつもいつもありがとうございます。杏寿郎君」

「礼には及びません。さぁ、俺の腕につかまって」

 腕の中で恥ずかしそうに縮こまる彼女に名残惜しい思いはありつつも腕を差し出せば、名前さんは控えめに自分の腕を絡めてくれる。触れ合っている部分から全身に熱が広がっていくように、己の体温が上昇していく。名前さんに不快な思いをさせてはいないだろうかと半歩後ろを追てくる彼女を見れば、「杏寿郎君はいつも暖かいですね」と、美しい百合の様に花笑むものだから、今すぐにでも自分の胸中を曝け出し、彼女を自分だけのものにしたいという独占欲が湧き上がってくる。
 彼女が絡むと感情の制御が効かない自分が心底不甲斐なく、己の悶々とした気持ちと葛藤している最中、爆音が耳をつんざく。はっとして頭上を仰ぎ見れば、夜空を覆い尽くす様な花火が炸裂していた。打ち上げの河岸からほど近い橋梁から見る大輪の花は、手を伸ばせば届いてしまいそうなほどの近さだ。
 横に視線をうつすと、名前さんが瞳を大きく開いて一瞬の煌めきを見つめている。夜空に吸い込まれるように消えていく鮮やかな花火よりも、彼女の方が余程美しく見えてしまうのは、夏の夜の幻などではないだろう。
 気がつけば、俺は指先でそっと彼女の頬を撫でていた。
 
「杏寿郎君?」

「名前さん。俺はこの後、少し大きな任務につくことになります」

 名前さんの動揺が頬に触れた指先から伝わってくる。俺を見つめる瞳はいつになく不安に濡れている。

「しかし、この任務を無事に終えることが出来たら、俺は炎柱に大きく前進できる。…もし俺が炎柱になったら、名前さん、貴方にお伝えしたいことがあります。その時は、…聞いてもらえるだろうか」

 瞳いっぱいに溜まっていた雫が、堰を切ったように名前さんの頬を滑り落ちていく。俺の言葉に何度も何度も小さく頷く彼女の眦に己の親指をやり、溢れ出る泪を拭う。そのまま彼女を抱きしめてしまいたい衝動をぐっと拳に抑え込み、もう片方の手で名前さんの頭をそっと撫でる。

「俺が泣かせたみたいだな」

「杏寿郎君が、泣かせたんです」

「む、それは申し訳ない」

「どうか、…どうかお気をつけて。ずっとずっと、貴方の帰りを待っています」

 彼女のいく筋もの泪が伝った頬に触れる俺の手に、そっと彼女の針金のように細い手が重ねられる。彼女の優しい口元には微かな笑みが湛えられ、花が咲く様に徐々にその唇を綻ばす。口笛に似たひゅるひゅるとした音色の後に続く轟音や、人々が一心に見つめる色とりどりの煌めきが入る隙など一分もないほど、吸い込まれるように彼女に魅了され身体の奥の方から熱が突き上げてくる。

 ―よもや。これは想像以上に厳しいな。

 今すぐにでも理性を手放して、彼女の細い腰を抱き寄せて己の胸の中に抱き留めることや、泪に濡れた撫子色の唇を奪ってしまうことも簡単だった。数年越しの強い想いは灼熱に熱し、夜闇に煌めく尺玉のように今にも爆発してしまいそうだ。
 だが、その衝動を抑え込む理由もまた、己の弱さなのだろう。幾度となく彼女に泪を流させ不安にさせてしまっている自分に足りないものは確固たる強さだった。
炎柱になることは一つの通過点にすぎないことは重々理解していた。だが、貴方を守り抜くという証を、どうか俺に示させてくれ。
 そしてその時は、どうかこの想いを受け止めて欲しい。