夢現と桜前線


 血反吐を吐くほどの労苦と強い精神力で、杏寿郎君は鬼殺隊での地位を確かなものにしていった。そんな彼が初めて弟子を迎えたのが、齢十八の頃である。誰からも指南を受けられずとも、煉獄家、呼吸の継承者として、ただ直向きに粉骨砕身努力し続けた彼を心から尊敬すると同時に、今までとは異なる気持ちが胸中に角ぐみ始めたことを無視することは出来なかった。
 煉獄家に奉公し八年以上が経過した。当時まだ小さかった杏寿郎君は、如才がなく利発な男の子であることには変わりなかったが、やはり私にとっては可愛く守るべきものだった。  それが今はどうだろう。欠点を探すのが難しいほど強く優しい立派な青年が、すでに煉獄家を背負って独り立ちしている。鍛えあげられた肉体も、磨き上げられた剣技も、明鏡止水な心も、温厚篤実な人柄も、燃えるような熱き想いも、その全てが堪らなく愛しかった。
 優しい杏寿郎君であれば、こんな私を否定しないことは分かりきっている。だが、彼をそんな疚しい気持ちで見るようになってしまった自分に、強い嫌悪感があった。

瑠火様にも呆れられてしまいますね。

杏寿郎には貴方が必要です。

 千寿郎君と拵えた甘味を仏壇に備え、優しく微笑む瑠火様の遺影に手を合わせぽつりと呟く私の元に、彼女の凛とした声が聞こえた気がした。
 それはまるで白昼夢のように、あまりにも私に都合の良い甘言だった。

*

 杏寿郎君が弟子として迎えた甘露寺蜜璃さんは、とても素直な愛らしい子で、千寿郎君や私とも直ぐに打ち解けた。住み込みで働く私と同様、煉獄家に身を置き鍛錬に励むことになったため、より一層賑々しい日々が続きなんとも言えない幸せな気持ちになる。杏寿郎君や蜜璃さんがいつ命を落とすかも分からない境遇にいることなど、忘れてしまいそうになる程の穏やかさだった。
 一方で、ずっともやもやとした蟠りが胸中で燻っていることも事実として認めざるを得なかった。剣技を指南するためには致し方のないことだと頭では理解しつつも、杏寿郎君が文字通り手取り足取り蜜璃さんへ示教している姿を見ると、形容し難い苦しさがあった。ましてや蜜璃さんは整った容姿だけでなく女性らしい身体を持ち合わせている。極め付けは彼女の心の美しさだ。女性の私ですらどきりとすることがある佳麗な彼女に、惹かれない男性などはたしているのだろうか。
 そしてこのような嫉妬めいた感情を抱く自分は本当に情けなく恥ずかしい。いい齢をした大人が、あんなに可愛いらしい子に嫉妬しているなど、杏寿郎君が知ったら心底呆れられてしまうだろう。

「……名前さん、名前さん!どうかされましたか」

 千寿郎君の不安そうな声が耳に届いてはっとする。厨に立ったままぼうっとしてしまっていたようだ。稽古中の杏寿郎君と蜜璃さんが喜ぶだろうと、千寿郎君と一緒にたんまりと桜餅を拵えていた手が暫く止まっていたようだった。

「ごめんなさい。私ったら。あら、殆ど千寿郎君に作ってもらってしまいましたね」

 眼前に堆く積まれた重箱には、桜餅がきっちりと収まっている。几帳面な杏寿郎君らしいなと感心しつつ、これだけの量を拵えても二人であればペロリと平らげてしまうんだろなと、思わず笑みが漏れる。

「お疲れではございませんか?最近、…その、何かお考えになられていることが多いようでしたので」

 本当に彼の洞察力には敵わないなと感心しつつ、こんな小さな子に気を遣わせてしまった自分が本当に不甲斐なく、心配そうにこちらを見上げる千寿郎君の目線に合わせて膝をおり、少し癖のある金糸を何度もなでる。気恥ずかしそうに頬を赤らめ慌てる彼が可愛くて、思わずまだ小さな身体を抱きしめる。

「ありがとう、千寿郎君。貴方にまで心配をかけてごめんなさい。ふふ、本当に千寿郎君はいい子ですね。瑠火様が貴方の成長を知ったら、本当にお喜びになると思います」

「名前さん…」

 最初は恥ずかしそうに腕の中で縮こまっていた千寿郎君が破顔する。母親を殆ど知らない彼にとって、私の存在が少しでも価値あるものであるよう、願うばかりだ。

「さて、そろそろ桜餅を杏寿郎君達に持って

「千寿郎!湯浴みにゆくぞ」

 千寿郎君の頭をもうひと撫でし、よっこいしょと立ち上がるタイミングで、勢いよく厨の扉が開かれる。驚いて千寿郎君とそちらをみると、弟同様美しい金糸から汗が滴り落ちるほど汗みずくになった杏寿郎君が、私と千寿郎君を隔てる形でつかつかと厨に入ってくる。普段の彼らしからぬ行動に、千寿郎君も驚いたように目をまん丸くしている。

「杏寿郎君。お稽古はもう終わりですか?今から桜餅をお持ちしようと思っていたのですが」

「なるほど!気持ちは有り難いが、汗だく故、先に湯浴みに行かせてもらう。甘露寺と先に召し上がってください」

 相変わらずなはきはきとした物言いで戸惑う千寿郎君を抱えると、屋敷の奥へと消えてゆく。早めに風呂の準備をしておいて良かったとほっとすると、間合を見計らったように蜜璃さんが遠慮がちに厨を覗き込む。

「あのさっき桜餅って聞いちゃったんですけど」

「そうなの。蜜璃さんに沢山食べてもらいたくて、ほら、こんなに作ってしまって。…といっても、殆ど千寿郎君が作ってくれたんですけどね」

「嬉しいです!ありがとうございます」

 蜜璃さんは白桃の様な透き通った頬をぽっと赤らめてにこにこと笑みを浮かべる。彼女のその笑顔を見るだけで、作った甲斐があったと満足し、重箱の桜餅を皿へ分けようとしたところで、彼女も汗みずくであることに気がつきはっとする。
 美しい桜色の髪は汗で額に貼り付いてしまっており、きっとあまり気持ちがいいものではないだろう。女性であれば尚更だ。

「蜜璃さん。風邪をひいてしまうといけないので、先に湯浴みをされては?…生憎杏寿郎君達が先に行ってしまわれたのですか」

「お、お気遣いありがとうございます!……
あのぉ、それでしたら一つお願いが」 

「ん、なんでしょう?」

 行儀良くぺこりと頭を下げた後に、蜜璃さんは少し考える素振りを見せると、遠慮がちに私を覗き込む。袴からちらりと覗く豊満な乳房に加えてこの愛らしい面様は、女性の私でもどぎまぎしてしまう。

「あのっ、私、名前さんと温泉に行きたいです!」

*

 可愛い蜜璃さんに頼まれてしまえば断ることもできず、煉獄家から程近いところにひっそりと湧き出る温泉今回初めてその存在を知ったのだけれどに足を運ぶことになったのだが、結果として連れてきて貰えて本当によかったと、源泉にしては適温な湯に浸かりながら茜空を仰ぎみる。

「んっ!気持ちいい。最高ですね、名前さん」

「そうですね。本当、温泉なんてどのくらいぶりだろう」

 思えば、杏寿郎君が鬼殺隊に入隊してからの数年間は本当に慌ただしく、千寿郎君も連れて3人で出掛けることなど殆ど無くなってしまっていた。それを思うと、まだ幼い千寿郎君にも寂しい思いをさせてしまっていたかもしれない。

「名前さんは、師範のことをお慕いしているのですよね」

「えぇっ!?」

 あまりにも突飛な質問に、私は天地がひっくり返った様な顔をしていたのではないだろうか。
 いつの間にか蜜璃さんは、新雪のように白く柔らかな肌を私にくっつけ、興味津々といった様子で可愛いらしい若菜色の瞳をきらきらと輝かせている。彼女は以前、一緒に添い遂げられる強い男性を見つけるために鬼殺隊に入隊したと教えてくれた。年齢的にもこういう類の話はとても興味があるのだろう。
 それは微笑ましいことなのだが、蜜璃さんに私の気持ちが筒抜けであったことに動揺し、言葉を続けられないでいた。

「ごめんなさい、突然。でも、名前さんの師範を見つめる瞳が、恋してるって思ったんです。私、そういうのわかっちゃうんです」

 自分よりも幼い少女に気持ちを見透かされていたからなのか、自分の気持ちを改めて指摘されたからなのか、身体がかぁっと燃えるような恥ずかしさに襲われる。あぁ、なんて情けなく恥ずかしい。
 そんなことは事実無根だと自分を偽り否定をすることも出来たのだろうが、彼女の前では隠し通せる自信がなかった。同性だからなのだろうか、今まで自分の気持ちを押さえつけていたからなのだろうか、隠し通したい想いとは裏腹に、私の口からはするすると言葉が溢れた。

「ええ…。私は杏寿郎君をお慕いしております。家族の様な愛おしさが、いつ間にかその枠には収まらなくなっていた。勿論、私は母の代から煉獄家にお仕えする身ですし、この気持ちは墓場まで持っていこうと思っています。彼には蜜璃さんの様な可愛いらしい素敵なお嬢様を娶ってもらって幸せになって欲しいと思っています」

「でもっ、師範は……」

「杏寿郎君はとても優しい子だから、きっと困ってしまう」

 だから分かって下さいと、蜜璃さんの手をそっと自分の掌で包んでお願いすれば、彼女は少し寂しそうに長い睫毛を伏せた。「今度は蜜璃さんの恋のお話を聞かせてくれませんか」と私が問えば、可愛らしくぽっと頬を赤らめて、過去のことやこれからのこと、包み隠さず楽しそうに話してくれる。
 そんな彼女を見ながら、若さはいいなと思ってしまう自分は、もう十分すぎるくらい齢を重ねてしまったのだろう。