劣情の焔


 初めての任務を終え、生家に帰還した。俺の顔を見るなり、わあわあと泣き崩れてしまった彼女を見て、俺が一生守っていきたいと思った。

 名前さんの母親は、元々煉獄家で女中として奉公してくれていた。名前さんは病気で臥せってしまった母親の後任として、我が生家の女中として勤め始めた。
 誰にでも優しくなんでも直向きに努力する彼女の姿は、当時の俺に多くの影響を与えたように思う。母が亡くなり父が鬱ぎ込むようになってからも、彼女は俺達兄弟に寂しい思いをさせまいといつも一生懸命だった。女中として日々忙殺される中で、空いた時間を見つけては街へ連れ出してくれたり、年中行事を体験させてくれた。母親のようで、姉のようで、いつしか彼女が自分の中でとても大切な存在になっていた。

 初任務の前夜、漏らしてしまった俺の本音を聞いた名前さんが、母のように抱きしめてくれた。その感覚は、母の時とのそれとは少し違っていた。もっと胸が苦しくて締め付けられてそれでいてどこか心地いい、そんな感覚だった。思わず抱きしめ返した彼女が、こんなにも華奢だったのかと驚いたのと同時に、この腕にずっと守られていたのだと痛感した。

 それ以来、名前さんへ抱く気持ちは、変化し大きくなっていった。この気持ちの答えが分からないほど、俺はもう子供ではなかった。

*

 男性の隣で上品そうな笑みを浮かべる名前さんを見かけたのは、俺が齢十六を迎えた仲夏のことだった。
 美しい長春色の着物に身を包み軽く化粧を施した彼女は、いつもより一層美しく思えた。それと同時にもやもやとした経験したことのない感情が胸中を支配していく。一言で言うと、とても嫌な気分だ。名前さんよりいくらか年上に見えるその青年は、どう考えても自分が横に並ぶよりも絵になっていた。こんな時、彼女との歳の差を嫌と言うほど痛感する。せめて自分が名前さんと同齢であれば、俺のことを異性として意識してくれたのだろうか。彼女が俺をみる瞳は、どこまでも優しいが決してそれ以上にはならない。

「兄上、兄上っ!」

「あ、あぁ。悪い千寿郎。ぼうっとしてしまっていたな」

 先程目にした光景に蓋をするように、早急に用事を済ませて帰宅する。稽古をつけて欲しいと遠慮がちに頼んできた千寿郎に勿論だと快諾しておきながら、こんなにも心ここにあらずな自分に不甲斐なさを感じる。

「兄上、あの、どうかされましたか?何か心配事でも」

「はは、千寿郎には敵わないな」

 少し休憩しようと、千寿郎を縁側へ促し二人並んで腰掛ける。いつもは名前さんがいい頃合いを見計らって休憩を促してくれるのだが、そんな彼女は今日は不在だ。

「千寿郎、今日名前さんは…」

「名前さんは、今日はお暇をいただきたいと申されて、兄上がお戻りになる前に出ていかれました。夕刻にはお戻りになるそうです」

「なるほど!……そうなのか」

「あのう、兄上?」

 俺のことを心配そうに覗き込む千寿郎の瞳にはっとし、何も心配するなと弟の頭を撫でる。こんなことで精神を掻き乱されてしまう自分は、本当に隊士としても人としてもまだまだだと自嘲する。
 名前さんのいる煉獄家が当たり前になっていた。彼女がいない人生を想像することができない。だが、彼女はもう齢二十を超えていたはずだ。この時代の二十歳は立派な成人の女性であり、嫁いでいないほうがおかしいくらいの年齢だ。そういった縁談の話もあるのかもしれない。そうなれば、名前さんは煉獄家を去ってしまうのだろうか。
 考えても分からないことは考えるだけ時間の無駄だと自分に言い聞かせるが、西に傾き始めた陽光が仄暗い雲に覆われていくのをみて、もやもやとした気持ちを払拭出来ないでいた。

*

 夜の帳がおりても、名前さんが帰宅しないため俺と千寿郎はいよいよ心配していた。夜深になれば鬼の活動が再開されるため、もしやと考えたくもない悪夢が何度も何度も頭をよぎっていく。

「やはり少し近くを見てこよう」

「はい、兄上。お気をつけて」

 眉尻を下げて心配そうな瞳でこちらを見つめる千寿郎に「大丈夫だ」と笑顔を向けると、俺は逸る気持ちをなんとか抑えて、闇夜を駆け抜ける。今日は非番で助かったと心底からほっとする。今後任務が増えてくれば、家族も名前さんも、一番近くで守ることが難しくなってしまうだろう。そうなった時、果たして自分は冷静でいられるのだろうか。
考えても仕方ない。そうあらなければならない。強くならなければ。誰よりも。愛しい人を守るために。

「やっ、やめてください!!」 

「何故です?貴方にとっても悪い話ではないはずです。大体、二十歳を過ぎた貴方を貰ってやろうといっているのです。この縁談のお話を逃したらそれこそ行き遅れになる」

「それならそれで構いません。人の気持ちを思い遣れない貴方のような人へ嫁ぐのであれば、一生独身の方がよっぽど幸せです」

 恐怖と怒りに震えているような、そんな声音だった。家から出て程なくして、昼間名前さんと一緒にいた青年が、揉み合う形で彼女の細い手首を石垣へ縫い付けるように押しつけている姿を目撃し、俺はどうしようもないくらいに頭に血が昇る。
 気がつけば、二人の間に割って入り、名前さん目掛けて今まさに振り下ろされようとしていた男の拳を受け止め、反対の自身の拳で思い切り男の頬を殴りつけていた。

「だ、誰だお前!何をする!」 

「杏寿郎君!?」

「女性に手を上げるなど言語道断。俺が相手になろう」

 人間相手に、殺気にちかいものを放ってしまったようだ。男は逃げるように俺達の前から去っていく。彼女が絡むとこんなにも感情の制御が難しいのかと、己の不甲斐なさを痛感する。小さな溜息を一つ吐くと、地面にへたり込んでいる名前さんに「大丈夫か」と声をかけ手を伸ばす。
 彼女は喫驚した表情を浮かべたままコクリと頷き、ゆっくりと俺の手を取るが、直ぐに申し訳無さそうに瞼を伏せる。

「名前さん?どこか痛いのですか」

「ご、ごめんなさい。腰が抜けてしまって」

 恥ずかしそうに頬を染め蚊の鳴くように小さく呟く名前さんに思わず笑いが溢れる。俺は屈んで彼女の膝下に手を差し込むと、そのまま横抱きにして立ち上がる。このまま連れて帰ることにしよう。

「杏寿郎君!だめです、下ろしてください」

「名前さんをこんな所に置いて行くわけにはいかない」

「あ、歩けますから。それに、重たいですし」

「む。先程腰が抜けたと話していたばかりです。それに、名前さんは軽すぎるくらいだ!千寿郎も心配しているので、このまま帰りましょう」

 俺の腕の中で、恥ずかしそうに頬を染める名前さんに、どうしようもない愛しさを感じながら、自分の首元に手を回すよう誘導する。躊躇いがちに回された腕は酷く熱くて、俺の高ぶる心悸が聞こえてしまわないかと冷や冷やしながら、彼女を抱いたまま往路同様闇夜を駆け抜けた。
 仲夏にしては肌寒い夜風が、熱くなった全身に心地よかった。