あなたがいた奇跡の果て

「とても順調ですよ。臨月に入られたのでいつ陣痛がきてもおかしくないですね」

「そうですか。胡蝶様、ありがとうございます」

「男の子か女の子か楽しみですね」

「ふふ。きっと杏寿郎君にそっくりな男の子ではないでしょうか。最近は毎日のように私の腹を元気に蹴るのですよ」

 胡蝶様の診察を受けた私は、すっかり膨らんだ自身の腹部をそっと撫でる。胡蝶様のご厚意でお忙しいにも関わらず、私の中に宿る新しい命を取り上げる役を買って出てくれた。
 煉獄さんの同僚のよしみだとかいつかのお礼ですとか、そんなのんびりとした穏やかな口調で彼女は言うが、私の身体をとても心配してくれているのは明白だった。鬼殺隊の隊士達が、こぞって彼女のことを女神と崇め奉る理由が腑に落ちる。
 杏寿郎君と夫婦になって少し経った頃、私の妊娠が発覚した。妊娠初期にかなり悪阻が酷く出てしまった私は、碌に食事を摂ることも出来ず、一時はその命まで危なかったと言われた程だ。
 ただでさえ柱として忙しくしている杏寿郎君に余計な心配をかけてしまい申し訳なく思っていたが、安定期に入ってからは食欲も戻り寧ろ少しふっくらした私に、彼は安心したようだった。

「名前?診察は終わったのか?」

 間合いよく私の愛しい旦那様が診察室に入ってくる。身重な体をよっこらせと持ち上げる私の手を優しく絡めとり、杏寿郎君は大丈夫かと心配そうに私を覗き込む。こういう無償の優しさは本当に昔から変わらない。私の大好きな貴方。

「胡蝶、いつもすまないな」

「いいえ。私も早くお二人の子にお会いできるのが楽しみです」

「そう言ってもらえると有難い。…胡蝶、くれぐれも俺が不在の間宜しく頼む」

「杏寿郎君、そろそろ任務に発たなくて大丈夫なのですか?」

 相変わらず綺麗な所作で胡蝶様にお辞儀をする杏寿郎君に関心しつつ、私はふと窓の外側に広がる秋天に視線をうつす。診察室に差し込む西日は、彼の出発を告げている。

「うむ。そろそろ時間なのだが、名前のことがどうにも心配でな。屋敷まで送っていく。よもや俺がいない間に生まれてくることもないと思うが、念のため千寿郎にも俺の屋敷に来て手伝ってもらうよう便りを送っておいた」

「杏寿郎君は大げさですね」

「愛する身重の妻を一人待たせて行くんだ。心配するのは当然のことだろう」

 杏寿郎君は困ったように目尻を下げて、大きな掌で私の頭を優しく撫でた。暖かな掌から彼の愛情が伝染し、限りなく満ち足りた想いに包まれる。
 相変わらず仲がいいですねと花笑み送り出してくれる胡蝶様に一礼し、私と杏寿郎君は胡蝶様の屋敷を後にする。 
 杏寿郎君のお屋敷までの道中は、大きな本道を挟むように銀杏の木が隙間なく並んでおり、絵の具で塗ったように色づいた見事な紅葉に傾きだした西日が反射して、宝石のように煌めいている。
 私達のもとに金木犀の薫りを運んでくる優しい風は、疑いようもなく秋の気配をはらんでおり、生まれてくる我が子には秋に因んだ名前を付けてはどうだろうかと、私の肩を優しく抱きながら隣を歩く杏寿郎君をそっと見上げる。
 直ぐに私の視線に気づいた彼は、幸せそうに目元を綻ばせ額にそっと口付けをくれる。

「こんな大事な時期に一人にしてすまないな」

「そんなに悲しそうな顔をしないで下さい。杏寿郎君は炎柱なのですよ。己の役目を果たさなくてどうするのです」

「うむ、そうだな。…すっかり名前は母親の顔だな」

 そうでしょうと得意げに小さく笑いながら自身の大きくなった腹部を撫でる私の手に、杏寿郎君の心地よい体温が重ねられる。そのまま腕を絡めとられて手の甲にそっと口付けをくれた彼の肩に、どこからか忽然と現れた濡羽色の鎹烏が舞い降りる。
 それと同時に「兄上」という声が耳に入る。どうやら思いのほか紅葉狩りを楽しんでしまったようだ。心配そうな顔を綻ばして、千寿郎君はこちらにぶんぶんと手を振ってくれる。
 息を弾ませて私達の元に辿りついた千寿郎君が数秒で呼吸を整えると、杏寿郎君から託されるように私の腕を優しくとった。

「兄上!任務に遅れてしまいます。兄上が戻るまで、責任を持って名前さんのお傍におりますので、どうぞ心配なさらずに行かれてください」

「ああ。もう日も暮れるな。千寿郎、くれぐれも頼んだぞ」

「はい、兄上!」

 頼もしそうに答える成長した弟に杏寿郎君は満足そうに頷いて、私達二人の子が宿る腹部をもう一度撫でる。

「それでは名前。行ってくる」

 陽だまりを残す火の粉のような閃きが、秋風にのり旅立った。
 吸い込まれるような紫陽花色の空には、ひんやりとした下弦の月がぼんやりと浮かび上がっていた。
 
 どうぞご無事で。