感傷のプレリュード
体調を崩してしまった母親の後釜で煉獄家に奉公し始めたのは、私が齢十五歳程の頃だった。
私は幼少の頃から、元々女中として雇われていた母親に連れられ、煉獄家の大きな屋敷を訪ねることが度々あった。母親の付き添いだった私が息子達の遊び相手に好都合だと思われていたのだろう。自分よりいくらか幼い兄弟二人の相手をしてやって欲しいと乞われ、そうしたことも数多あった。煉獄家の長男である杏寿郎君、次男の千寿郎君にとって私は、面倒見のいい姉のような存在に映っていたかもしれない。
母の病気が分かり奉公が難しくなった折、奥方の瑠火様が是非にとも私に後を任せたいと仰ってくださった。煉獄家のように裕福な家庭ではなかった苗字家にとっては有難い話であり、私はその話を受けることにした。
明治から大正時代にかけて、都会を中心に女性の社会進出が進んでいると風の噂で聞いたことがあったが、私は当然の如く社会に出た経験も無ければ、母親のように他人の家に奉公することもなかった。そんな自分が果たして立派に勤め上げることが出来るのだろうかと、当時少女だった私はよく考えたものだ。
母と離れ、住み込みで煉獄家に仕えることとなった私に、様々なことを教えてくださったのが瑠火様だった。家族が恋しくなり孤独感を強める私を、そよ風のような柔らかい愛情で包んでくれたのもまた彼女であった。私は本当の母親のように彼女を慕っていた。
しかし運命は残酷だった。どうしてなのだろう。親類の中でも早死にをする人は、決まって周りの人に惜しまれ、残念がられて送られることが殆どだ。瑠火様もまた、その一人だった。
それはあまりにも若すぎる死だった。
本当に最後まで強く優しい女性だった。
―杏寿郎と千寿郎を頼みます。私は息子達を信じておりますが、まだまだ子供故、母親が恋しくなることもあるかもしれません。…その時は、どうか名前さんに支えて欲しいと思っています
ご逝去される二日前に、瑠火様が私に送ってくれた言葉だった。そんな事を言わないで欲しい、希望を持って生きて欲しい、泪を流しながら懇願する私の手を取り弱々しく笑った瑠火様は、自分の最期が分かっているように、ゆっくり首をふった。
―私の息子達を頼みます
眠るように息を引き取られた瑠火様の葬儀は粛々と執り行われた。
まだ小さい弟の千寿郎君は状況を良くわかっていないようであったが、杏寿郎君は決して泪を見せることはなかった。こんなに小さな子が、自分の気持ちを押し殺して弔問客に丁寧に頭を下げている姿を見ながら、私はこの子達を見守っていこうと自分の心に誓いを立てた。
あれから五年の年月が過ぎた。
私は相変わらず煉獄家で奉公している。変わったことと言えば、煉獄家当主の槇寿郎様がお酒を手放せなくなり、家族に強くあたるようになってしまったことか。瑠火様が亡くなってしまったことが大きな要因であることは、火を見るより明らかであった。
その一方で、二人の御子息は真っ直ぐ立派に成長していた。特に杏寿郎君の心身の成長には目を見張るものがあった。
煉獄家は、代々鬼狩りを生業としている由緒正しい家系であり、どの時代でも鬼殺隊で柱を務める者がいたと、以前瑠火様が教えてくれた。その血を色濃く受け継いでいるのか、槇寿郎様が剣技の指導を放棄したにも関わらず、杏寿郎君は日々の勉学や鍛錬を怠らず、肉体的にも精神的にも成長していた。
「兄上、喜んで食べてくれるといいですね」
「勿論大丈夫ですよ。杏寿郎君の好物ばかりですから」
千寿郎君と二人で厨に立ち杏寿郎君の好物を拵えていく。今日は、彼が鬼殺隊に入隊した記念すべき日だ。立派に成長した彼を、天国の瑠火様もきっと喜んで見てくださっているだろう。
千寿郎君も、兄と比べれば些か大人しい性格ではあるが、優しさや誰にでも気遣いの出来るきめ細やかさは間違いなく瑠火様から受け継がれたものだ。
「ただいま戻りました」
玄関の方で威勢のいい声がする。私と千寿郎君は顔を見合わせて笑顔で頷き合うと、料理を作る手を止め玄関まで声の主を出迎えに行く。あまりにも広いこの屋敷は、五年以上住んでいる今でも時々迷子になってしまうことがある。
「おかえりなさい、兄上」
「杏寿郎君、おかえりなさい。入隊式はどうでした?」
上がり框に腰掛けて、履物を脱ぐ杏寿郎君の隊服に施された「滅」の文字を見つめながら、煉獄家が代々鬼狩りを生業にしていようとも、まだ齢十五歳の彼が命をかけて闘う必要が本当にあるのだろうかと胸が締め付けられる思いがする。
しかし、実際に私や家族はそのおかげで煉獄家に雇われ生計をたてることが出来ている訳で、そんな自分が情けなくなった。もし自分にもっと財や力があれば、杏寿郎君をこんなに危険な目に合わせることはしないと思う一方で、彼は自分の意志でこの道を歩み始めたのだから、私がとやかく言うことは無駄であることも分かっていた。彼の炎のような燃える瞳には、いつも強い信念が宿っていた。
「早速明日から任務に出ることになりました」
「…そんな…もういきなりなんて……」
「それが俺のやるべきことですから…ん?千寿郎、名前さん、何やら厨から良い匂いがするな」
私達の表情の翳りを直ぐに察知してか、杏寿郎君は視線を厨に向けて、気遣うような優しい笑みを浮かべる。なんて立派なのだろうと、私は目頭が熱くなるが、年上の自分がこんなことでは示しがつかない。「今日は腕によりをかけて作りましたよ」という一言を必死に絞りだし、千寿郎君と一緒に湯浴みをするよう勧めた。杏寿郎君の門出と、厄払いの意味も込めて本日の湯船には、大きめの柚子を沢山浮かべたのだ。
「それではお言葉に甘えて。千寿郎、行こうか!」
「はい、兄上!」
顔を見合わせながら仲睦まじく歩く二人のその姿を、ずっとずっと見守らせて欲しいと、私は目を瞑りながら天国の瑠火様へと祈念した。
*
杏寿郎君は、いつものようにうまいうまいと夕餉をペロリと平らげてくれた。その食べっぷりにはいつも驚かされるが、彼の成長を感じて、思わず千寿郎君と顔を見合わせて笑いあった。
夕餉の後は、明日の任務に備えて早めに休むよう杏寿郎君に伝えるが、どこまでも心を砕いてくれる彼は、千寿郎君を寝かしつけた後も、厨で明日の仕込みをする私を手伝ってくれた。
全ての仕事を終える頃には、既に夜深になっており、明日から任務につく杏寿郎君に甘えすぎてしまったと両手で顔を覆い猛省する。
「名前さん、大丈夫か?」
「私ったら、杏寿郎君に頼ってしまってごめんなさい。明日も早いのだから、早くお休みになって」
「……」
既に背丈があまり変わらなくなってしまった杏寿郎君は、心配そうに私の顔を覗き込むが、続いた私の言葉に少し話し辛そうに口籠る。はっきりと物を言う彼にはとても珍しいことだ。
「杏寿郎君?どうかしました?」
「…実は、明日のことを考えると、眠れそうにないのです」
眉尻を下げて少し困ったように儚げな笑みを浮かべる杏寿郎君へ、どうしようもなく愛しく切ない気持ちが込み上がってきた。自分に子供がいたのなら、きっとこのような気持ちになることは想像に難くなかった。
いくら成長したといっても、まだたった十五歳だ。煉獄家当主の槇寿郎様に代わり、全てを背負おうとして孤軍奮闘する彼の気持ちに、どうしてもっと早く気がついてあげられなかったのかと私は強い自責の念に襲われる。
気がつけば私は杏寿郎君を力一杯抱きしめていた。
「…名前さん」
「杏寿郎君。ごめんなさい、ごめんなさい。あなたにすべて背負わしてしまって。本当に情けない、不甲斐ないです」
「な、何故名前さんが泣くのですか」
私の腕の中で、ほんのりと頬を赤らめながらさらに困ったように狼狽する彼に構うことなく、ポロポロと泪を流しながら、杏寿郎君の美しい金糸を撫で続けけた。
「杏寿郎君なら、絶対に大丈夫です。貴方達兄弟のような優しくて強い子を私は他に知りません。お母様が、瑠火様が、絶対にあなたを守ってくれるから」
「……ありがとう、名前さん」
瑠火様が亡くなってからというもの、頼り甘えることを一切せず弱音も吐くことなく一意専心してきた彼が、逡巡した末に私の背に回してきた掌は酷く戸惑っているようだった。
誰も甘え方を教えてあげなかったのだ。それを思うと怒涛のような苦しみと切なさの心が募った。厨の窓の結霜ガラスから差し込む青白い月光のもとで、私はまるで母親になったような気持ちで、杏寿郎君を抱きしめ続けた。